先週の説教より
「少女よ、起きなさい」 マルコによる福音書5章35-43節
「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と会堂長に告げられた言葉を主イエスはそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と会堂長を励まされました。主イエスは会堂長の娘の死を聞いても決して「たじろぐ」ことがなかったのです。この主イエスの姿の中にすでに死に「勝利して」おられる主イエスの姿を見ることができるのではないでしょうか。
主イエスが「神共にいます」(インマヌエルの)恵みの中に歩まれる間に、主イエスはすでに死に勝利する神の全能の命の中に生きておられるのです。
主イエスがご自身の十字架の死を前にして「わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)と言われた時、主イエスはすでに死に勝利しておられたのです。死に対する勝利の確信の中で、真実に十字架の死を受けることを通して、主イエスは死に勝利する復活の命を明らかにしてくださったのです。
会堂長の家で人々が大声で泣きわめいているのを見て、主イエスが「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われた時、人々は主イエスを「あざ笑い」ました(38~40節)。ここに死が「絶対的現実」として人々を支配している姿を見ることができます。しかし、主イエスにとって死は「眠り」でしかないのです。人間の罪が主の御臨在の恵みによって一瞬のうちに清められるように、死は神の全能の御力の前に眠りでしかないのです。死に対する勝利の確信の中で、主イエスが子供の手を取り、「少女よ、起きなさい」と言われると、少女は眠りから覚めるようにすぐに起きて歩き始めたのです(41~42節)。「少女よ、起きなさい」という主イエスの御言葉は私たちを罪と死の眠りから目覚めさせてくださる神の救いの力なのです。
牧師 柏木英雄
(2020年1月19日週報)