先週の説教より
「自分の魂をゆだねなさい」ペトロの手紙(一)4章15-19節(4/23説教)
16節に「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません」とあります。「キリスト者として苦しみを受ける」とはどういうことでしょうか。常に神の御前に自らの罪を言い表すことによってキリストの救いに与って生きるというこの信仰の取り組み自体が、「キリスト者として苦しみを受ける」ことの最も中心的な事柄ではないでしょうか。なぜなら、このような信仰の取り組みこそ信仰者自身にとって常に心の戦いであるからです。私たちは罪を告白することがキリストの命に与る上で最も大切なことであることをよく承知していながら、そのことをおっくうに感じ、それを怠りがちになるからです。しかし、そのような取り組みこそキリスト者に課せられた最も尊い課題である故に(なぜならキリスト者以外にそのような取り組みをする人はいないのですから!)「決して恥じることなく」誇りをもって「キリスト者として苦しみを受ける」歩みに励むべきである、と言うのです。
17節に「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」とあります。「神の家」(教会)から裁きが始まるとはどういうことでしょうか。神の裁きとは、心の高ぶりが裁かれ、心砕かれ、それによってキリストの命に生かされることです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったペトロのように!その意味では神の裁きは同時に神の救いなのです。そうであれば、信じる者こそ神の裁きを受け、いよいよ深くキリストの救いに生かされるべきなのです。神の裁きがそのようなものであるなら「神の福音に従わない者たちの行く末は、~どんなものになるだろうか」(17節b)と言われているのです。そうであればこそ「神の御心によって苦しみを受ける人」は創造主なるキリストに魂をゆだね、いよいよ善き業に生かされるべきなのです(19節)。
牧師 柏木英雄