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先週の説教より

「イエスにつまずいた」 マルコによる福音書6章1-6節

主イエスは故郷ナザレにお帰りになり、安息日に会堂で御言葉を宣べられました。ルカ福音書によればイザヤ書61章の御言葉が用いられました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。~」。主イエスがこのイザヤ書を用いられたということは、暗にご自分が「油注がれた者」(メシア、キリスト)であることを表明したことになります。そして、ナザレの人々はそれを聞いた時、まことに神はこのような無名の地ナザレからメシアを与えてくださった、と御名を讃えるべきでしたが、まさにそれができませんでした。それができるためには、ナザレの人々は余りに主イエスの「育ち」を知り過ぎていたのです。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(3節)と思ったのです。主イエスの力強い御言葉を聞けば聞くほど、そのように考え、主イエスの言葉を神の言葉として聞くことができなかったのです。こうしてナザレの人々は「イエスにつまずいた」(3節)のです。

主イエスはナザレの人々の間では「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(5節)のです。なぜでしょうか。そういう人々の間で奇跡を行えば、人々はますます深く主イエスに「つまずく」ことになるからです。それ故に主イエスは、あえて奇跡を行わず、できるだけナザレの人々の仲間、兄弟として振舞われたのです。この主イエスの振舞いの中に、ナザレの人々に対する深い愛と赦し、そして十字架への決意が込められていたのではないでしょうか。ナザレの人々を救うためには、それ以外に道がないことを知っておられたからです。

牧師 柏木英雄
(2020年2月2日週報)