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先週の説教より

「十字架の言葉」コリントの信徒への手紙一1章18-25節(7/9説教)

 18節に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とあります。「十字架の言葉」とは十字架について宣べ伝える宣教の言葉(17節)のことです。主イエスの十字架の死は人間的にはおぞましい、否、本来あってはならない出来事です。なぜなら、事実神の御子メシアである主イエスが神を冒瀆する人間として断罪され、呪いの木に付けられたのですから。しかし、この出来事の中に全ての人間を救わんとする神の御心が示されていることを語る宣教の言葉が「十字架の言葉」です。

 主イエスの弟子たちは主イエスの十字架の死に躓きました。主イエスが最初に受難予告をされた時、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と主イエスをいさめました。これは弟子たちの本心でした。主イエスがエルサレムに入城された時、弟子たちは今こそ主イエスが栄光のメシアとして王座に着くことを期待したのです。それこそが主イエスにふさわしいと思ったからです。そのイエスが神を冒瀆する者として十字架につけられたのですから、弟子たちの心の動揺は計り知れないものだったのです。

 しかし主イエスご自身は、公生涯の初めから十字架の死を遂げることによって全ての人間の罪の贖いを実現することが自分のメシアとしての使命であり、それが神の御心であることを自覚しておられたのです。主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのはそのためでした。そして事実、主イエスは十字架の死を神への信頼と人々への愛の中に死ぬことによって罪の贖いを成就し、復活の命への道を開いてくださったのです。

 「十字架の言葉」とはこの主イエスの十字架の死の意義を解き明かす宣教の言葉です。この言葉は、人間的にはまことに「愚かなもの」ですが、信じる者には「神の力」なのです。

牧師 柏木英雄