先週の説教より
「誇る者は主を誇れ」コリントの信徒への手紙一1章26-31節(7/16説教)
28節に「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」とあります。主イエスの弟子たち自身がまさにそういう人たちでした。弟子たちは漁師や徴税人として当時のユダヤ社会の底辺に生きる人たちでした。主イエスはそういう人たちを御自分の弟子として選ばれたのです。そして弟子たちも自分のような者が選ばれたことに深い喜びを覚え、すべてを捨てて主の弟子となり、主と共に生きる救いの喜びを知ったのです。
この弟子たちに重大な試練が与えられました。主イエスの「受難」です。弟子たちは主イエスの受難をどうしても受け入れることができませんでした。主イエスを愛する故に、主イエスを信頼する故に、受け入れることができませんでした。しかし、それは主イエスに対する「不従順」を意味することでした。主イエスの受難(十字架の死)を絶対に受け入れることができないという思いを捨てることができなかったからです。その限り、弟子たちは「富める者」「持てる者」「知恵ある者」となったのです。そのために主イエスの本当の姿を見る目を失ってしまったのです。そのためにペトロは3度主イエスを「知らない」と否み、他の弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げ去ったのです。
しかし、復活の主はその弟子たちをお見捨てになりませんでした。復活の主御自身が弟子たちに会ってくださり(最初に弟子たちを選ばれたように!)、今こそ本当に主の弟子として用いようとされたのです。この主の限りない憐れみの恵みに触れて、弟子たちは今こそ自分の全てを主に委ね、主の命に生きる者とされたのです。
この弟子たちにとって今や主イエスだけが「誇り」とする唯一人の御方となったのです。「誇る者は主を誇れ」(31節)とある通りです。
牧師 柏木英雄