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先週の説教より

「イエス・キリストという土台」コリントの信徒への手紙一3章10-15節(8/20説教)

 10節に「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」とあります。パウロは自分が「熟練した建築家」であることを誇っているのではありません。神の恵みの中で熟練した建築家のように働くことができたと言って、神の「恵み」を誇っているのです。

 イエス・キリストを信じるとは、信じる者の心の中に(或いは存在の根底に)「土台」としてイエス・キリストが据えられるという「出来事」が与えられることなのです。すると、信じる者の今後の生き方は、この土台を無視することができず(11節)、この土台に従った生き方が求められるのです。土台として据えられたキリストが働かれるのです。このキリストの働きに身を委ねることによって、キリストの命に生かされる信仰生活が与えられるのです。

 12節に「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合」とあります。自分で「金、銀、宝石、木、草、わら」を用いて家を建てる(人生を生きる)というのではないのです。土台であるキリストにどれだけ従順に自分を委ねて生きたか、その従順の程度に従って、その人の人生が神の御前に「金、銀、宝石、木、草、わら」のいずれであるかが決まる、と言っているのです。15節に「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」とあります。不思議な言い方です。なぜこう言えるのでしょうか。その人の「土台」としてイエス・キリストがいてくださるからです。たとえその人の人生が、キリストに対する不従順の故に「木、草、わら」のように審判の火によって燃え尽きてしまうとしても、その人の土台としていてくださるキリストがその人自身を守ってくださるからです。イエス・キリストが土台としていてくださることがどんなに偉大なことであるかが分かります。

牧師 柏木英雄