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先週の説教より

「わたしを裁くのは主」 コリントの信徒への手紙一4章1-5節(9/17説教)

 4節後半に「わたしを裁くのは主なのです」とあります。主イエスは「救い主」です。しかし「裁き主」でもあるのです。主イエスは私たちの罪を裁きつつ救われるのです。罪を裁くとは罪を罪として明らかにするということです。私たちの罪を明らかにした上で、救われるのです。言い換えれば、私たちが主の御前に「わたしは罪を犯しました」と言って主の御前にぬかずく時、主は直ちに「わたしはあなたの罪を赦そう」と言ってくださるのです。その意味で主イエスは私たちの裁き主です。私たちの隠れた罪を明らかにする(裁く)ことによって、私たちを主の清き命(復活の命)に生かしてくださるのです。

 ペトロは主イエスに「沖へ漕ぎ出して漁をしてみなさい」と言われた時、自分たちは一晩中漁をして一匹も取れなかったのだから、無駄だろうと思いました。それでも主の御言葉に従って漁をしたところ、網が破れ舟が沈みそうになる大漁になりました。その時、ペトロの心は「裁かれ」、主の御前にひれ伏し「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。その時、主はペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカ5章10節)と言われたのです。自らの罪を言い表してこそ、ペトロは主の弟子として用いられることができたのです。

 5節に「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」とあります。主の再臨の時の裁きは主イエスの十字架と復活に基づく裁きと別のものではありません。主イエスの十字架と復活に基づく裁きが最後決定的に行われるのが再臨の時の主の裁きです。それなら日々の歩みの中で主の十字架と復活に基づく裁きに与りつつ生きることが大切なのです。今、主の裁きに与りつつ生きる私たちを、主は終わりの日に大いなる祝福をもって迎えてくださるのです(5節)。

牧師 柏木英雄