文字サイズ
  • 文字サイズを中にする
  • 文字サイズを大にする
MENU CLOSE
キービジュアル

先週の説教より

「見せ物となった」 コリントの信徒への手紙一4章8-13節(10/1説教)

 9節でパウロはこう言っています。「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです」と。「死刑囚のように最後に引き出される者」とは、当時ローマのコロセウム(円形劇場)で余興の最後に死刑囚が獣と戦わされたことを念頭に語っている言葉です。キリストを信じる信仰の指導者(使徒)は、この世においてそのような「死刑囚」として「見せ物」にされている、と言っているのです。パウロの自己認識です。

 しかしこのことは、すべての信仰者について言えることではないでしょうか。この世においてキリストを信じて生きるということは、その信仰が本当であるかが問われる状況に身を置くことを意味しているからです。この世の大部分の人はキリストを信じる信仰に特別に関心があるわけではないかもしれません。しかし、それでも心の深みにおいては、もしキリストを信じる信仰が本当(真実)であるなら、その証拠を見せてほしい、キリストが本当に人を救ってくれるというなら、その救いを示してほしいという気持ちを持っているのではないでしょうか。

 キリストを信じる信仰者がこの世においてそういう状況に置かれているという意味において、信仰者は「死刑囚」であり「見せ物」にされていると言うことができると思うのです。必ずしもすべての人が「敵」のように私たちの信仰を突き放して見ているわけではなく、「天使」のように深い好意をもって温かく見守ってくれる人々もいると思うのですが。いずれにしても、信仰者はこの世にあってそういう状況の中でキリストを信じる信仰の真実が問われているのです。そうであれば、私たちは日々の生活の中でいよいよ心の腰に帯を締め、主に生かされる生活に励まなければならないと思うのです。

牧師 柏木英雄