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先週の説教より

「神の国は力にある」 コリントの信徒への手紙一4章14-21節(10/15説教)

 14節で「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」と言っています。パウロはコリント教会の人々が高ぶった思いで党派争いに明け暮れていることを厳しく批判しているのです。パウロの批判の根底にある思いは、高ぶった思いでいてはキリストの命(救い)に与ることができないということです。キリストのご臨在の恵みは弱いところにこそ豊かに与えられるという思いです。それ故にパウロは「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう」と言うことができたし、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリント12章9~10節)と語ることができたのです。

 それ故にこそ、自分たちの強さを誇り、自分たちの知恵深さを競い合っているコリント教会の人々の在り方を痛烈に批判しているのです。ただその批判は、どこまでも「愛する自分の子供として諭すため」であるというのですが。

 19~20節で「高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。神の国は言葉ではなく力にあるのですから」と言っています。「神の国」(神の支配)とは、キリストの霊的臨在の恵みが働くところです。キリストが共にいてくださる(インマヌエル)恵みがあるところです。そこに神の国があるのです。そこが神の国なのです。それなら、自分の弱さを誇り、罪の告白に励み、キリストの命に与って生きる信仰者の交わりがあるところ(教会)、そこが神の国なのです。パウロは、コリント教会がそういう意味で「神の国」としてこの世にあって力強く歩むことを切に願っているのです。

牧師 柏木英雄