先週の説教より
「魂の牧者・キリスト」(音楽礼拝) ペトロの手紙一2章22-25節(11/12説教)
23節に「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」とあります。主イエスは十字架につけられても人を憎まず、深い赦しの中に十字架の死を遂げられました。主イエスの十字架の死はまことに「愛の極致」と言われるべき出来事です。
主イエスの十字架の死にはもう一つ別の側面があります。それは神から「見捨てられる」ということです。主イエスは十字架の死に際して「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られたことが福音書に記されています。神が主イエスを「見捨てられる」とはどういうことでしょうか。それは神が何の助けもお与えにならないということです。主イエスが十字架に付けられるにまかせられるということです。
何よりも聖霊の助けをお与えにならないということです。主イエスはその時までの地上の生涯を常に聖霊の助けの中に生きて来られました。どんな困難な時も常に「アッバ、父よ」と祈り、聖霊の豊かな満ちあふれの中に力強く、愛をもって生きて来られました。その聖霊の助けがないということです。主イエスが最も聖霊の助けを必要とする時に、聖霊の助けがなかったのです。それによって主イエスはご自分が神から「見捨てられた」ことを実感されたのです。それでは主イエスは絶望したのでしょうか。そうではありません。なぜなら、主イエスはご自分がすべての人間に代わって神から「見捨てられる」ことが神の御子メシアの使命であると自覚しておられたからです。そうであれば、あの叫びは絶望の叫びではなく、メシアとして罪の贖いが成就されたことへの宣言だったのです。
25節に「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」とあります。主イエスが私の罪のために私に代わって神の裁きを受けて下さったことを知る時、私たちのさ迷う心は本当の安息の場を見出すことができるのではないでしょうか。
牧師 柏木英雄