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先週の説教より

「日常生活の仲裁」 コリントの信徒への手紙一6章1-6節(11/19説教)

 1節に「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです」とあります。信仰者同士の間で争いが起こった時、それを信者同士の間で解決しないで、信者でない、この世の権威(裁判所)に訴えて解決しようとするのか、それは信仰の無力を表すことで恥ずべきことではないか、とパウロは言っているのです。2節でこう言っています。「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです」。信じる者たちこそこの世を裁くべきなのに、そのこの世から裁いてもらうとは、まことに信仰の無力を表すことで、恥ずべきことではないか、と言っているのです。

 信仰者にとって一番大切な問題は、罪の問題です。そして罪とは神に対する違反のことです。心の中で悪い思いを持つことが、既に神に対して罪を犯すことなのです。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。~みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5章22~28節)。主イエスがこのように言われるのは、神に対する人間の罪がいかに深いものであるかを知らせるためです。そしてその罪の全てを主イエスが十字架の死と復活をもって贖い、罪からの救いの道を開いてくださるので、常に主の十字架と復活の恵みに頼って、罪赦され清められた者として生きるように、と主イエスは勧めておられるのです。

 この世はこういう罪を知りません。この世が知るのはこの世の法律に違反した罪だけです。しかし、本当の罪は神に対する心の違反なのです。その罪が裁かれ清められなければ、本当に正しく生ることはできないのです。信仰者はそのことを世の人々に語るべきだし、そこから与えられる信仰の知恵によってこの世の日常生活の仲裁を行うべきではないか、とパウロは言っているのです。

牧師 柏木英雄