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先週の説教より

「万民のために整えられた救い」(年末礼拝) ルカによる福音書2章21-38節(12/31説教)

 24節の「主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」とは、貧しいユダヤ人のための律法(レビ記5章11節)の例外規定のことですから、幼子イエスは貧しいユダヤ人夫婦の子供としてお生まれになったことが分かります。いずれにしても、幼子イエスは一人の赤ん坊として生まれ、一人の赤ん坊に過ぎないのですが、この幼子を神から遣わされたメシアであると見抜いた人が二人(シメオンとアンナ)いた、ということが今日の聖書によって強調されているのです。そして、二人以上の証言によって事を決するという律法の観点から見てもこの(二人の)証言の事実は重みを持っている、と今日の聖書は言わんとしているのです。

 なぜシメオンとアンナは一人の赤ん坊に過ぎない幼子イエスをメシアと見ることができたのでしょうか。それは二人が真実に神により頼む信仰の中で、聖霊によって心の目が開かれたからです。33節で「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた」とあります。マリアもヨセフも幼子イエスが聖霊によって命を与えられた子供であることは承知していました。しかしそれは幼子イエスが大人になって初めてメシアとしての働きをするという理解に基づくものでした。それ故に両親は、幼子イエスが幼子のままでメシアであると言われたことに驚いたのです。

 幼子イエスが幼子のままでメシアであるのは、この幼子の中に、事実、神が共におられたからです。この幼子が、事実、インマヌエルそのものの御方だからです。そのことをシメオンもアンナも聖霊の導きの中で知ることができたのです。それ故にシメオンは「わたしはこの目であなたの救いを見た」(30節)と言うことができたのです。主イエス・キリストご自身がインマヌエルそのものの御方です。この主を心に受け入れることが主の恵み(十字架と復活の恵み)に与ることであり、主の清さに生かされることです。その意味を込めて、シメオンは「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です」(31~32節)と語ることができたのです。

牧師 柏木英雄