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先週の説教より

「命の言葉について」(新年礼拝) ヨハネの手紙一1章1-4節(1/7説教)

 1節に「初めからあったもの」とあります。また2節には「御父と共にあった」とあります。3節には「御父と御子イエス・キリストとの交わり」とあります。これは主イエスが一人の人間としてマリアの胎から生まれたけれども、その方は初めから天の父なる神のもとにおられたということです。このことは主イエスが「聖霊によって」お生まれになったということを意味しています。

 聖霊によって生まれるとはどういうことでしょうか。それは主イエスの人間存在の根底にいつも聖霊(神ご自身)が働いておられたということです。だから主イエスは私たちと全く同じ人間でありながら、全く罪のないお方として生きることがおできになったということです。具体的には、主イエスが「アッバ、父よ」と祈ると、直ちに父なる神がその祈りに答えて主と共にいてくださるので、主イエスはあらゆる罪の誘惑から守られることができたということです。

 主イエスは30歳になって初めてメシアとしての公生涯を始められました(ルカ3章23節)。30歳まで主イエスは何をしておられたのでしょうか。父なる神と共にある歩みの中で人間の罪の現実をつぶさに経験することを通して、人間の罪の贖いのためにご自身を「贖いの小羊」として神に献げなければならないことを考え、その心の準備の時を過ごされたのではないでしょうか。

 生涯を通して神と共に歩まれた主イエスですが、ただ一度、神から「見捨てられた」(引き離された)時がありました。それが主イエスが十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時です。これは絶望の叫びではありません。神が主イエスをお見捨てになることによって罪の贖いが成就したからです。そのことを意味する叫びだったのです。

 このようにして常に神と共に歩まれた清い主イエスがご自身を献げてくださることによって、私たちは全くの罪人であるにもかかわらず、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」の中に生きることを許されているのです。

牧師 柏木英雄