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先週の説教より

「自分自身のものではない」 コリントの信徒への手紙一6章12節-20節(1/28説教)

 12節に「わたしには、すべてのことが許されている」とあります。確かに主キリストの十字架と復活の恵みの故に「すべてのことが許されている」のです。しかし、それでも避けるべき罪があるのです。それは「みだらな行い」(13節、18節)をすることです。なぜなら、「みだらな行い」(性的不品行)は「自分の体に対して罪を犯す」(18節b)ことになり、主キリストとの真実関係(真実な交わり)に生きる信仰者の生き方とは根本的に矛盾することになるからです。

 16節に「娼婦と交わる者はその女と一つの体となる」とあります。性的な不品行は単に体の結びつきの問題だけではなく、心(霊)の結びつきの問題でもあるのです。体の交わりは体が一つに結び合わされるだけでなく、心(霊)も一つに結び合わされるのです。そして、キリストを信じる信仰者は「主に結びつき、主と一つの霊に結び合わされつつ」(19節)生きることである故に、性的不品行とは根本的に矛盾することになるのです。

 性的不品行が「自分の体に対して罪を犯す」(18節b)とはその意味において言われていることです。性的不品行はキリストとの霊の結びつきに根本的に相反するからです。性的不品行以外の罪はすべて「体の外に」ある罪です。それでも、それらの罪がキリストの十字架の赦しと復活の命による霊の助けを必要としていることは言うまでもありません。しかし、性的不品行の罪は「自分の体に対して罪を犯す」ことになるので、キリストの霊の働きと根本的に矛盾し、キリストの霊の助けに与ることができないのです。否、自分からキリストの霊の助けを拒むことになるのです。

 信仰者の体は「聖霊が宿ってくださる神殿」であり「自分自身のものではない」(19節)のですから、神、主キリストの霊に生かされることによって「自分の体で神の栄光を現す」(20節)ことが求められているのです。

牧師 柏木英雄