先週の説教より
「召された時のままで」 コリントの信徒への手紙一7章17-24節(2/18説教)
17節でパウロは「それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」と言っています。具体的には「割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけない」し、「割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけない」(18節)と言うのです。「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけない」(21節)、つまり、奴隷のままでいなさい、と言うのです。
なぜパウロはこのようなことを言うのでしょうか。このように語るパウロの気持ちとはどういうものでしょうか。それは神に召された時の「召し」(招き)を大切にすべきであるということです。神に召された時の「召し」から心を逸らせて、自分の身分(立場)(割礼を受けているか否か、奴隷であるか自由人であるかということ)に心を奪われ、神の召しを疎かにすることがないようにということです。召された身分(立場)は、神がそれを認めていてくださるのだから、まずその身分(立場)において心を神の召しに向け、いよいよ深く主キリストの救いの恵みに生かされるべきである、ということです。
それなら、パウロは召された時の身分(立場)そのものに拘っている訳ではないのです(「割礼の有無は問題ではない」19節)。召された者自身が自分が召された時の身分(立場)に拘って、神の召しから逸れて行くことを案じているのです。しかし、そうであるなら、神の召しに生きることに十分心掛けながら、その上で自分の身分(立場)の改善に努めることも許されているのではないでしょうか。奴隷であることに耐えられない、自由人でありたいと願うなら、その(改善の)努力をした上で心を込めて(自由人として)神の召しに従い、キリストの救いに励むという生き方も、キリストの十字架と復活の恵みの故に許されているのではないでしょうか。その許しの中で「召された時のままでいなさい」というパウロの言葉を聞くことができると思うのです。
牧師 柏木英雄