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先週の説教より

「神の霊に生きる」 コリントの信徒への手紙一7章36-40節(3/3説教)

 36節で「ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい」と言っています。大変あからさまな言い方です。パウロは結婚を「キリストと教会」の関係(エフェソ5章32節)を映す神の賜物として結婚の最高の理想を語ると同時に、きわめて現実的に欲求の解消の手段また姦淫の罪を犯さないため(7章1節)の方策として結婚を語っています。どちらも結婚の真相を言い表しているのではないでしょうか。

 なぜパウロは欲求の解消の手段としての結婚について語るのでしょうか。それは性の欲求に囚われることによって、心を神に向け、心からの悔い改めに励む信仰生活が停滞することを心配しているからです。そのために結婚し心を落ち着かせて生活することの中で、神の御前における悔い改めの生活に励むことを願っているからです。そのために結婚することを勧めているのです。

 問題は結婚してからです。私たちは結婚生活の中で自らの様々の弱さ、罪深さ、愛のなさ、自分中心の在り方に深く気づかされるのではないでしょうか。その自分の貧しさ、弱さ、愛のなさを神の御前に正直に言い表すのです。そして心からキリストの十字架と復活に基づく聖霊によるキリストの御臨在の恵みに頼るのです。そのようにしてキリストへの従順を深めるのです。その時、私たちは改めて結婚が「キリストと教会」の関係を映すべく神から与えられた賜物であることに気づかされるのです。

 40節の最後で「わたしも神の霊を受けていると思います」とパウロは言っています。神の霊を受けるとは、自らの罪の汚れに気づかされ、いよいよ真剣にキリストの霊の助けを祈り求め、キリストの清き霊に生かされることです。パウロは自らキリストの霊に生かされている者として結婚の問題を真剣に考えているのです。

牧師 柏木英雄