先週の説教より
「神に知られている」 コリントの信徒への手紙一8章1-6節(3/10説教)
1節に「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』」とあります。「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」(4節)のだから、偶像に供えられた肉を食べることによって神の御前に汚れを受けることは、確かにないのです。しかし、そのような肉を食べることは汚れを受けることであると信じている人々(7節)の前でその肉を食べることは、愛のない行為である、とパウロは言うのです。正しい信仰の「知識」を持っていても、「愛」がなければ、その信仰は空しい(13章2節)とパウロは言うのです。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)。
その関連において「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(2節)とパウロは言うのです。「知らねばならぬことを知らない」とは、どういう意味でしょうか。主キリストの霊的臨在の恵みを知らないということではないでしょうか。主イエス・キリストを信じていても、主キリストの霊的臨在、キリストが、今、ここに、聖霊の働きの中でご臨在くださること(インマヌエル)を知らない信仰は、観念的な信仰で、それこそ愛のない、空しい信仰である、とパウロは言うのです。
どうしたらそのような観念的信仰(知識だけの信仰)から脱却できるのでしょうか。それは神の御前に誠実な「悔い改め」の心を献げることによってです。自分の信仰がまさに観念的な信仰になりがちであるという自らの不信仰、信仰の弱さに気づいて、心から悔い改めの祈りを献げるのです。その祈りを神が憐れんで聞いてくださる時(神は必ずその祈りを聞いてくださいます!)、初めて私たちは「主共にいます」(インマヌエル)の信仰に生きることができるのです。その意味で私たちが「神に知られる」(3節)のです。私たちが「神を知る」のではなく、私たちが「神に知られる」のです。そのことを感謝と畏れをもって覚えるところに、真の信仰は成り立つのです。
牧師 柏木英雄