先週の説教より
「洗礼者ヨハネの死」 マルコによる福音書6章14-29節
ガリラヤの領主ヘロデの結婚が神の御前に正しくないことを批判して牢に捕らえられていた洗礼者ヨハネが、ヘロデの誕生日に舞を舞った娘の褒美として首を切られ、娘の求めるままに盆に載せて与えられるというおぞましいヘロデの罪業が、今日の個所に記されています。マルコ福音書はその事実だけを語り、主イエスがそれについてどのように考え発言されたかは何も語っていません。この主イエスの「沈黙」が不思議に思えます。
ヨハネが牢に捕らえられている間に、ヨハネは自分の弟子を主イエスに遣わし「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタイ11章3節)と尋ねさせました。ヨハネは、ヘロデの悪に沈黙しておられる主イエスに不信を抱き、主イエスが神から遣わされたメシアであることに「疑い」を抱いたのです。かつて「自分の後に来る方は自分より優れている、自分はその履物の紐を解く値打ちもない」と語って、人々に主イエスを紹介したメシアの先駆けとしてのヨハネが、ヘロデの悪を裁かずにいるように見える主イエスに「躓いた」のです。
しかし、主イエスは決してヘロデの悪、この世の罪を傍観しておられた訳ではありません。主イエスはこの世とヘロデの罪を鋭く見つめ、裁いておられたのです。ただ、その裁きを、ご自身の上に加えられたのです。ご自身が十字架の死を全うすることによって、ヘロデのような罪人が罪赦され、主の清さに生きることができる救いの道を拓こうとしておられたのです。すべての罪人が自らの罪を言い表し、主の清き命に生かされる救いを実現しようとしておられたのです。主イエスの「沈黙」の中に、そのような主イエスの十字架の死と復活への決意が込められていたのです。
牧師 柏木英雄