先週の説教より
「霊的なものを蒔く」 コリントの信徒への手紙一9章3-12節(4/21説教)
6節に「わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか」とあります。キリストの「使徒」であるということは、「生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利」を持つことである、とパウロは言うのです。
なぜ、キリストの使徒、言い換えれば「御言葉の役者」(牧者)は「生活の資を得るために」この世の仕事をしない「権利」があるのでしょうか。それは、「御言葉による生活」を実践するためです。フィリピ1章27節の言葉によれば「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送る」ためです。それによって御言葉に生かされる信仰生活を行い、その中から御言葉(説教)を語るためです。
牧者が真に御言葉に生かされ、肉の思い清められ、力強く御言葉を語ることができた時、それを聞く会衆(信徒)も霊的に励まされ、信仰をもってこの世の(誘惑の多い)現実を生きる力が与えられるからです。そのために牧者は、この世の仕事をせずに、御言葉によって生活する権利が与えられているのです。「わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ること」(11節)が許されているとある通りです。
しかし、御言葉に生かされる生活の実践自身が自明のことではないのです。私たちの中には、生来、御言葉に不従順な罪があるからです。そうであれば、牧者は自らの不信仰(不従順)を見つめながら、キリストの十字架と復活の恵みに頼り、その恵みの中で罪清められた者として御言葉を語る以外にないのです。牧者が「霊的な」「生きた」御言葉を語ることができた時、初めて牧者はその責任を果たしたことになるのです。牧師が常に霊的な、キリストの臨在の恵みを伴う生きた御言葉を語ることができるようにお祈りください。
牧師 柏木英雄