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先週の説教より

「宣べ伝えずにはいられない」 コリントの信徒への手紙一9章12-18節(4/28説教)

 パウロは、福音宣教に仕える使徒(御言葉の役者)に生活のために働かず、福音宣教に専念する権利があることを認めながら、「わたしはこの権利を何一つ利用したことはない」し、「その権利を利用したい」気持ちがあると疑われるくらいなら「死んだほうがましです」と激しい気持ちを吐露し、「だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」(15節)と言うのです。

 このように語るパウロの言葉の背景には、やはりあのダマスコ途上での復活の主イエスとの出会いがあったのではないでしょうか。あの時、パウロは律法を行う自分の正しさを信じ切っていました。だからこそ、キリスト教徒を迫害することができたのです。キリストを信じることによって救われると語りつつ、神の律法を軽んじるように見えるキリスト教徒の信仰の在り方を絶対に認めることができない、と思ったのです。

 しかし、そのパウロが復活の主イエスに出会った時、否、復活の主御自身がパウロに出会ってくださった時、鉄槌を下されたように、パウロは自分の誤りに気づかされたのです。自分こそ正しいと信じていたその信仰こそ思い上がりであり、罪そのものであること気づかされたのです。そしてこのように深い罪の中にある者をも見捨てずに顧みてくださる神、主キリストの深い愛と憐みに心打たれ、「生きることはキリスト、死ぬことは利益である」(フィリピ1章21節)という信仰へと導かれたのです。

 「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(16節)と語るパウロの言葉の背後にそのような復活の主イエスとの出会いがあったのです。パウロにとって「主と共にある」(インマヌエル)信仰の生活こそすべてなのです。主から離れれば、深い罪の闇が広がっていることをパウロは良く知っていたからです。それ故に、福音を宣べ伝えずにはいられないし、それをしなければ不幸である、と言うのです。

牧師 柏木英雄