文字サイズ
  • 文字サイズを中にする
  • 文字サイズを大にする
MENU CLOSE
キービジュアル

先週の説教より

「共に福音にあずかる者」 コリントの信徒への手紙一9章19-23節(5/5説教)

 20節に「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです」とあります。「ユダヤ人のようになる」とはどういうことでしょうか。それはユダヤ人が大切にしている律法を認めることです。律法を認めた上で、それにまさるキリストの福音を語るのです。律法かキリスト(福音)かと二者択一を迫るようなことをしないのです。二者択一を迫れば、出発点のところでユダヤ人を排除することになるからです。ユダヤ人の立場を受け入れつつキリストの福音を語る時、ユダヤ人の心は和らげられ、いつかキリストご自身の霊の助けの中で、ユダヤ人が律法へのこだわりから解放される時が来るからです。パウロはそのことを祈りつつキリストの福音を語ったのです。

 「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました」(21節)とはどういうことでしょうか。「律法を持たない人」(異邦人)は旧約聖書の神を知らず、神への不従順としての罪を知らないのです。そういう人たちにキリストの十字架と復活に基づく神の救いを宣べ伝えることの困難さは言うまでもありません。しかし、パウロが異邦人の一人一人に寄り添いながら「あなたのためにキリストが十字架の死を遂げ、復活の命を現わし、今もキリストは聖霊において生きて働き給う」と心を込めて語る時、そのパウロの言葉の中に、事実、キリストが生きて働いてくださることによって、異邦人もまた「わたしのために十字架の死を遂げ、復活し、今も生きて働き給う」キリストを心から信じる者へと導かれるのです。パウロはそのことを信じたのです。

 「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(23節)と言っています。パウロは「わたしは既に福音にあずかっている」とは言わないのです。「わたしも共に福音にあずかる」と言うのです。このパウロの謙遜こそパウロが真にキリストの救いに生かされていることの証であり、パウロの福音宣教の力なのです。 

牧師 柏木英雄