先週の説教より
「キリストを試みないように」 コリントの信徒への手紙一10章1-11節(6/2説教)
9章27節に「他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないため」とあります。福音を宣教する者自身が「失格者」になってしまうことがあり得るというのです。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それは、福音のことが十分に分かっていると考えることによって真剣に主を求めることを怠るからではないでしょうか。
Ⅱテモテ2章13節に「わたしが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」とあります。キリストはどんな罪をも(御自身の十字架の故に)赦してくださいます。しかし、だからと言って、高を括り、キリストは赦してくださるはずだと言って、悔い改めの祈りを怠り、心からキリストの助けを求めないなら、それは「キリストを試みる」(10章9節)ことであり、キリストの祝福に与ることができないからです。キリストは、謙遜にキリストの助けを求める者にのみ豊かに御自身の恵み(霊的臨在の恵み)を与えてくださるからです。
パウロが10章1節以下で旧約の民イスラエルについて語るのは、神の恵みを軽んじた悪しき例証(6節)を示すためでした。イスラエルの民はエジプトを脱出する時、後ろからはエジプトの軍隊、前には紅海の大海原という絶体絶命の状況の中で、モーセによる紅海の奇跡によって「神の民」として生きるものとされました。イスラエルはただ神の恵みによって生きるものとされたのです(1~4節)。そうであれば、イスラエルはただ神の恵みに謙遜に頼りながら生きる以外にないものとされたのです。それにもかからわず、イスラエルは神の恵みに対する感謝を忘れ、神の恵みを蔑ろにすることによって神の民として生きることに失敗したのです。パウロは、そのイスラエルの悪しき例を取り上げつつ、新しい神の民(教会)はイエス・キリストという最高に尊い神の恵みに対して正しい態度を守らなければならない、と警鐘を鳴らしているのです。
牧師 柏木英雄