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先週の説教より

「主の記念として」 コリントの信徒への手紙一11章23-26節(7/28説教)

 主イエスは弟子たちとの最後の晩餐において、パンについて「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われ、また、杯について「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました(23~25節)。

 ここに2度「わたしの記念として」という言葉が使われています。「記念とする」とは、思い出す、想起する、という意味の言葉です。つまり、十字架において裂かれた主イエスの御体と流された血潮を思い出すということです。つまり、主イエスはこの言葉、わたしの記念として」という言葉を用いることによって「聖餐」というものを儀式化されたのです。そして「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのである」(26節)とあるように、主イエスの再臨の時までこの聖餐という儀式を行い続けなさい、と主イエスは言われたのです。

 ところで、「記念する」とは、単に想起する、思い出すということではありません。パンと杯によって主イエスの十字架の出来事を思い起こすことの中で、事実、復活の主が聖霊の働きの中で、臨んでくださり、復活の主の命の中に生かしてくださる、ということが起こるのです。このことが聖餐という儀式の持つ最も大切な意味なのです。

 説教は「言葉」で主イエスについて語ることの中で主の霊的臨在の恵みに与り、聖餐はパンと杯をいただくという「行為」の中で主の霊的臨在の恵みに与るのです。私たちは礼拝の中で、説教(言葉)と聖餐(業)によって主イエスを覚え、主イエスの霊的臨在の恵みに生かされながら、「主が来られるときまで」地上の歩みを続けていくのです。

牧師 柏木英雄