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先週の説教より

「神の教会を見くびるのか」 コリントの信徒への手紙一11章17-22節 (7/21説教)

 パウロはコリント教会について「お互いの間に仲間割れがある」(18節)ことを指摘しつつ「あなたがたの間でだれが(信仰の)適格者であるかを明らかにするためには仲間争いも避けられないかもしない」(19節)と言って、仲間争い(信仰上の論争)の必要性をある程度認めているのですが、その仲間争いの対立が「主の晩餐」(20節,愛餐)にまで持ち込まれ、「各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」(21節)であるなら、その仲間争い(信仰上の論争)はもはや神の御前に正しいもの、つまり、誰が信仰の適格者であるかを明らかにするためのものではなく、単なる自己主張のための争いに過ぎない、と断じているのです。

 「主の晩餐」(愛餐)を正しく行うことができないような教会のあり方(仲間割れ)は「貧しい人々に恥をかかせる」だけでなく、何よりも「神の教会をみくびる」ことになる(22節)、とパウロは警鐘を鳴らしているのです。

 「神の教会を見くびる」とは、「神を見くびる」こと、「神を軽んじる」ことです。神を軽んじる時、何が起こるのでしょうか。神が私たちの祈りを聞いてくださらない(神の沈黙)ということが起こるのです。そして、神が私たちの祈りを聞いてくださらないということは、私たちの礼拝(祈り)にキリストが伴ってくださらない、キリストが霊的に不在であるということを意味するのです。その時、私たちの礼拝(祈り)は無力であるということが起こるのです。

 神は、キリストの十字架と復活の故に、溢れるほどの愛と赦しに満ちた御方です。しかしその神は、私たちの心の高ぶりの故に、沈黙される御方でもあるのです。その意味で「神の教会を見くびる」ことは決してあってはならない、とパウロはコリント教会にそして私たちに警鐘を鳴らしているのです。

牧師 柏木英雄