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先週の説教より

「自分をわきまえている」 コリントの信徒への手紙一11章27-33節(8/4説教)

 27節に「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」とあります。「ふさわしくないままで」とは何を意味するのでしょうか。パンと杯が主イエスの十字架の死とそれに続く復活を指し示すものであることを「わきまえない」態度のことではないでしょうか。言い換えれば、聖餐におけるパンと杯が主イエスの十字架と復活の出来事を指し示すものであり、主イエスが私の罪の贖いのために十字架の死を遂げ、復活の命を現わしてくださったことを感謝し、その恵みに与ることを祈りつつ、パンと杯をいただくこと。それが、聖餐に与る唯一つの「ふさわしい」態度なのではないでしょうか。

 その点で「自分をよく確かめる(吟味する)」(28節)ことが求められているのです。そのような感謝と祈りなしに「主のパンを食べ、主の杯を飲む」者は「主の体と血に対して罪を犯すことになる」(27節)と言うのです。「主の体と血に対して罪を犯す」時、何が起こるのでしょうか。聖餐が聖餐としての意味を持たなくなるのです。聖餐が指し示す主の十字架と復活の恵みが恵みとして働かないのです。言い換えれば、主イエスの聖霊によるご臨在の恵みがないのです。その時、聖餐は力を失い、単なる儀式に過ぎないものになるのです。

 29節「主の体をわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」とあります。「自分自身に対する裁き」とは、主イエスが救い主として働いてくださらないということです。私たちがふさわしい態度で聖餐に与らなければ、聖餐は私たちにとって「裁き」となり、主の「沈黙」に与るものとなるのです。私たちが自らの罪に気づき、悔い改めと感謝をもって聖餐に与る時、聖餐は再び豊かな主の恵みとして私たちに与えられるのです。

牧師 柏木英雄