先週の説教より
「聖霊によらなければ」 コリントの信徒への手紙一12章1-3節(8/11説教)
3節に「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」とあります。「イエスは神から見捨てられよ」とは、原語では「アナテマ・イエス」で「イエスは呪い」という意味です。イエスを信じることが「呪わしいこと」「空しいこと」「意味のないこと」ということです。
ペトロは、フィリポ・カイサリアにおいて主イエスによってご自身について問われた時、聖霊に満たされ、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16章16節)と語ることができました。主と共にある歩みの中で主の霊に導かれた時、言い換えれば、主の霊の支配の中に生かされた時、ペトロはそのように告白することができたのです。しかし、主イエスが捕らえられ、いよいよ十字架の死が確実になった時、ペトロは三度「そんな人は知らない」と主イエスを否定してしまいました。それこそ「イエスは神から見捨てられよ」「イエスは呪いである」と言ったに等しいのです。
なぜこのようなことが起こったのでしょうか。ペトロは主イエスの十字架の死を理解することができなかったからです。そのような死は全く空しく意味のないことと思ったからです。その時、ペトロの心は主イエスに対する信頼を失ったのです。その時、ペトロの心は主の霊から離れ、この世の霊に囚われたのです。それ故にあのようなことが起こってしまったのです。
2節に「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれた」とあります。信仰者が「異教徒」(この世の人)に戻ってしまうことがあるのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」という御言葉の真理を改めて深く考えさせられます。
牧師 柏木英雄