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先週の説教より

「一つの体、一つの霊」 コリントの信徒への手紙一12章12-20節(9/1説教)

 12節に「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」とあります。人間の体は多くの部分(手足目耳口等々)から成り立ち、どんなに小さな部分も体にとって大切で不必要なものが一つもないのと同じように、キリストの体、即ち、教会を構成している一人一人は「かけがえのない」一人一人である、何よりキリストが一人一人をかけがえのないものとして愛してくださるそのキリストの愛を証しする上でかけがえのない一人一人である、とパウロは言うのです。

 「ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」(13節)ことによって、一人一人が(人種、身分、性別、年齢の違いを越えて)かけがえのないものとしてキリストの体なる教会を構成している、と言うのです。

 確かに、教会に集う一人一人は事実そのままで「かけがえのない」存在です。しかし、その一人一人の「かけがえのなさ」を一層顕著に表す道があるのではないでしょうか。それは、教会に集う一人一人が「一つの霊をのむ」(13節)、即ち、キリストの霊に生かされる信仰の生活に励むことです。キリストの霊(キリストの霊的臨在の恵み)に生かされる時、私たちは自らに神から与えられた固有の賜物(能力)を(人と比較することなく)喜びと感謝の内に生かすことができるからです。

 キリストから離れると、私たちは様々の人間的な思いに囚われ、自分の賜物を十分に生かすことができません。しかし、主に立ち帰り、キリストの霊に生かされる時、私たちは自らの賜物を喜びと感謝の内に生かす力を与えられます。私たちが「一つの体」(教会)の中にあって、「一つの霊」(キリストの霊)に生かされる信仰の生活に励む時、教会に連なる一人一人の「かけがえのなさ」が一層鮮やかに示されることになると思うのです。

牧師 柏木英雄