先週の説教より
「共に苦しみ、共に喜ぶ」 コリントの信徒への手紙一12章21-26節(9/8説教)
22節に「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」とあります。これはどういうことを言っているのでしょうか。私たち信仰者は自分の弱い部分、即ち、罪深く、不信仰な部分について目をつぶってはいけない、むしろそこでこそ、キリストの十字架と復活を仰ぎ、主の霊的臨在の恵みに頼るべきである、ということを言っているのではないでしょうか。
自分の弱い部分を知ればこそ、私たちは謙遜に神の御前にぬかずき、キリストの救いに頼るようになるからです。自分の弱い部分(罪)を見ようとしなければ、砕かれた心でキリストに頼ることをしないために、いつまでたっても自分の弱さ(罪)を克服することができないのです。
弟子たちが主イエスの十字架に躓いたことは弟子たちにとって益となることだったのです。主イエスの十字架に躓くことによって、弟子たちは自分の中に主を拒む不従順があることを知り、そのことを通していよいよ謙遜に主の救いに頼ることによって、真に主の弟子として生きることができたのです。
23節に「体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします」とあります。「覆う」とは、他者の弱い部分を受け入れて見えないように覆うということです。「愛は多くの罪を覆う」(Ⅰペトロ4章8節)ということです。そのように他者の弱さを覆い合うことこそが「恰好よいこと」であり「見栄えのよいこと」であり、キリストの教会にふさわしいことなのではないでしょうか。
25節以下に「体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」とあります。一人一人がしっかりとキリストに結び合わされ、教会が主の教会として一つに統一されているなら、教会は自ずから「共に苦しみ、共に喜ぶ」美しい共同体として生きるようになるのです。
牧師 柏木英雄