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先週の説教より

「霊で祈り、理性でも祈る」 コリントの信徒への手紙一14章6-19節(10/27説教)

 引き続きパウロは異言と預言について語り、預言(説教)の大切さを強調しています。ところで、パウロは異言を決して否定してはいません。むしろ積極的に肯定しています。5節では「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思います」と言い、18節では「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」と言っています。
 なぜパウロは異言をこのように積極的に肯定しているのでしょうか。それは、異言が主イエス・キリストとの霊的な交わりを前提にしているからです。異言は主キリストとの霊的な交わりの、言葉に言い表すことのできない、いや、言葉以前の「感動」を意味しているからです。ただ、言葉に言い表すことができないために、それが何を意味しているのか第三者には分からない故に、異言よりも預言、即ち、はっきりと言葉に出して語る御言葉の説き明かし(説教)の方が大切である、とパウロは言っているのです。
 御言葉の説き明かし(説教)は、主キリストとの霊的な交わりの感動を誰にも分かる言葉で言い表す行為です。それが「教会を造り上げる」(14章4節)のです。ではどうしたら、的確な御言葉の説き明かし(説教)ができるのでしょうか。人間の能力の問題でしょうか。そうではありません。「霊的な賜物を熱心に求める」(12節)かどうかの問題です。より一層キリストとの霊的な交わりの深みへと導かれるべきなのです。
 15節に「霊で祈り、理性でも祈る」とあります。まず主との霊的な交わりを求めて祈るのです。その中で、心の目が開かれることによって、主との霊的な交わりを言い表す言葉(理性)が与えられるのです。そうであれば、まず霊で祈り、その中で、理性でも祈るのです。それによってキリストの救いの豊かさを誰が聞いても分かる言葉で語ることができるものとされるのです。それなら、主キリストとの霊的な交わりがいつでも一番大切なことなのです。

牧師 柏木英雄