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先週の説教より

「無秩序の神ではなく、平和の神」 コリントの信徒への手紙一14章20-40節(11/24説教) 

 パウロは「預言」(御言葉の説き明かし、説教)することの大切さを強調しています。確かに、キリストにおける神の恵みを人が聞いて分かる言葉で語る(証しする)ことの大切さは分かりますが、それをしようとするとき、私たちはそのことの困難さに直面するのではないでしょうか。人が聞いて分かる言葉で語ること自体の難しさを感じるだけでなく、何より神の恵みに生きる自らの信仰の貧しさを見せつけられるからです。

 しかし、そのことを恐れて御言葉を説き明かす努力をやめ、「異言的な」独り善がりの信仰のほうに逃げてしまうことは「子供っぽい」ことで「大人」の信仰者のすることではない(20節)とパウロは言うのです。確かに御言葉を説き明かそうとする時、私たち自身の信仰の貧しさが曝け出されますが、まさにそこでこそ主の十字架と復活の恵みに頼り、主の霊の助けをいただきながら、御言葉の説き明かし(説教)に努めることが「大人」の信仰者の在り方である、とパウロは言うのです。

 30節に「座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい」とあります。私たちは自らに示された神の言葉(啓示)を「特別視」しがちではないでしょうか。しかし、それは独り善がりの「子供っぽい」考え方なのではないでしょうか。神の啓示は神の自由な恵みの中で与えられるのですから、私たちは他の人に示された神の啓示に謙遜に耳を傾けるべきなのです。そのようにして「皆が共に学び、皆が共に励まされる」(31節)べきなのです。

 そのような節度(秩序)ある礼拝の在り方が求められているのです。そこに「まことに神はあなたがたの内にいます」(25節)と言われる真の礼拝があるのです。「神は無秩序の神ではなく、平和の神(秩序の神)」(33節)とはそういうことを意味しているのではないでしょうか。

牧師 柏木英雄