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先週の説教より

「死者が復活しないとしたら」 コリントの信徒への手紙一15章29-34節(2/9説教)

 29節に「死者のために洗礼を受ける」という表現があります。これは死んだ人(死者)のために(代わって)洗礼を受けるなどということではありません。そのような洗礼についてパウロが語ったことも勧めたこともありません。ここで言う「死者」とは洗礼を受ける者自身のことです。洗礼を受ける者自身が罪の中に死んでいる者(死者)であるということです。その者がキリストの復活の命に与って復活する(永遠の命に与る)ために、洗礼を受けるということを言っているのです。そして、もし死者が復活しないとしたら、キリストの復活もなかったことになるのだから、死者の復活のために洗礼を受けることは全く意味のないことになる、とパウロは言うのです。

 しかし、死者の復活が、事実、あるから(キリストの復活は死者を復活させる神の全能の御力があることの証明!)、死の危険を冒してでも(30節)福音宣教に励むことができるのです。そもそも信仰者は神の御前にあって罪のために「日々死んでいる」(31節)のであり、キリストの復活の命に与って霊的に「日々新しく生かされている」のである、とパウロは言うのです。キリストの復活があり、死者の復活があるから、そのような信仰者の日々があるのです。もしキリストの復活がなく、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(32節、イザヤ22章13節)と言うことになるのは当然のことである、とパウロは言うのです。

 34節で「神について何も知らない人がいる」と言っています。神について知らないのは、その人が神に対して高ぶった思いを抱いているからなのです。その人に対して神が「沈黙される」から、その人は神について何も知ることができないのです。それならその人は神から「裁かれている」のです。その人が自らの高ぶりに気づいて神の御前に謙遜になる時、キリストの復活の命に霊的に与ることによって「死者の復活」を信じることができる者とされるのです

牧師 柏木英雄