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先週の説教より

「霊の体の復活」 コリントの信徒への手紙一15章35-49節(2/16説教)

 「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」(35節)という問いに対して、「あなたが蒔くものは死ななければ命を得ないではないか」(36節)とパウロは言っています。少しわかりにくい問答ですが、ここでパウロが念頭に置いていることは、「罪の体」が死ぬことによって罪のない「清い体」に生まれ変わる(復活する)ということです。信仰者が罪を告白しつつ常に新しく聖霊の助けの中でキリストの復活の命に与ることによって霊的に清められ、罪のない体として生かされる(霊的に復活する)信仰生活を念頭に置いて、信仰者が死んだ時には、キリストの復活の命に完全に生かされることによってキリストと同じ罪のない清い体に復活する、とパウロは考えているのです。

 44節で「自然の命の体が蒔かれ、霊の体が復活するのです」とあります。「自然の命の体」(罪の体)は、「蒔かれなければ」ならないのです。言い換えれば、「死ななければ」ならないのです。さらに言えば、罪を告白して、キリストの復活の命に(霊的に)与らなければならないのです。そうでなければ、「霊の体が復活する」ことはないのです。即ち、新しい命に生かされることができないのです。「自然の体」(罪の体)がそのまま「霊の体」として生かされることはないのです。

 46節で「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです」とあります。これは主イエス・キリストご自身を念頭に語っているのです。主イエスは最初から「霊の体」であったのではなく、最初は私たちと全く同じ「罪の体」(サルクス)を取られたのです。その中で「アッバ、父よ」と祈りつつ聖霊の助けの中で「霊の体」として生きられたのです。その主イエスの「霊の体」に(信仰により)霊的に与ることによって、私たちも「土からできたその人(アダム)の似姿」でありながら、「天に属するその人(主イエス)の似姿」(49節)として生きることができるのです。

牧師 柏木英雄