先週の説教より
「主イエスの系図」 ルカによる福音書3章23-38節(5/4説教)
ルカ福音書の著者ルカはどういう意図で主イエスの系図を記しているのでしょうか。それは主イエスが一人の人間としてイスラエルの歴史の中に系図を持っていることを言わんとしているのではないでしょうか。主イエスは、神の御子メシアとして聖霊によってマリアの胎の中から生まれ、聖霊によって罪清められつつ生きた御方でしたが、そのような人として私たちと全く同じ人間性を持っておられたのです。
23節に「イエスはヨセフの子と思われていた」とあります。ヨセフはマリアと結婚する時、マリアが聖霊によって身ごもったことを疑い、深い苦悩の中から離縁を決意しました。しかし、夜夢の中で、マリアの胎に与えられた幼子が将来人間を罪から救うメシアとなるとの御言葉を与えられ、聖霊の助けの中でそれを信じることができた時、ヨセフはマリアと結婚することができたのです。
そうであれば、主イエスが「三十歳」(23節)まで一人の人間として生き、三十歳の時にメシアとしての公生涯を始めることができたのも、ヨセフのお陰と言うことができるのです。ヨセフがいればこそ主イエスの人間としての存在が可能であったのです。そのことを考える時、ヨセフの存在の大切さ、いや、神の祝福を思います。それ故に主イエスの系図はヨセフの系図として記されているのです。
この系図の中に「ダビデ」(31節)います。ダビデこそ「あなたの子孫の中からメシアが与えられる」と言われた人です。そしてダビデは自らの罪の現実の中で「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩編51編12節)と祈りました。このダビデの祈りが主イエスによって実現されているのです。
主イエスの系図の最後は「神に至る」(38節)となっています。罪人である人間がそのまま神に至ることは不可能です。しかし、罪人が主イエスの十字架と復活の恵みの中で主イエスの清き命に与り、神の子とされる時、神に至ることができます。ルカはそういう意図をもって主イエスの系図を記しているのではないでしょうか。
牧師 柏木英雄