先週の説教より
「主の霊がわたしの上に」 ルカによる福音書4章16-22節(6/29説教)
主イエスは故郷ナザレの会堂で安息日にイザヤ書の言葉を読みになりました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(18~19節)。
「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれている」中で主イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(20~21節)と話し始められました。この主イエスの御言葉はどういう意味でしょうか。不思議な表現です。この主イエスの御言葉は、このイザヤ書に言われていることは「わたし」(イエス)において実現しているということを言わんとしているのではないでしょうか。しかし、それをそのように直接的に語ればナザレの人々の躓きになることを恐れて、敢えてぼかすように語られたのではないでしょうか。故郷ナザレの人々への配慮がなされていると思います。
「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚き」つつ「この人はヨセフのことはないか」(22節)と言ったのです。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。~」と言って、イエスに躓いたとマタイ13章54節以下に記されています。
主イエスはどこからあのように語る力を与えられたのでしょうか。ヘブライ5章7節にこうあります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」ご自身を神に献げ尽くす真実な祈りの故に、主イエスは神の霊に満たされ、あのような力ある御言葉を語ることがおできになったのです。
牧師 柏木英雄