先週の説教より
「人の子は安息日の主」 ルカによる福音書6章1-5節(9/14説教)
ある安息日に主イエスの弟子たちが麦畑で麦の穂を摘んで食べているのを見て、ファリサイ派のある人々が「なぜ、安息日にしてはならないことをあなたたちはするのか」(2節)と言って、主イエスと弟子たちを批判しました。
その時、主イエスは旧約聖書サムエル記上21章1節以下に記されているダビデのことを取り上げ、「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに~神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか」(3~4節)と言われました。マルコ福音書2章27節で「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われた通りです。
5節で主イエスは「人の子は安息日の主である」と言われました。安息日(礼拝日)で「主」(主人)として崇められるべきは「人の子」(メシア)であるということです。「人の子」とはメシアを指す言葉で、主イエスは暗にご自身を指して言われたのです。つまり、主イエスを批判しながら、自分たちこそ安息日の礼拝を守っているというファリサイ派の人々の礼拝とは、本当に神の御心に適う礼拝であるのか、と主イエスは問うておられるのです。
なぜなら、神の御心は主イエスご自身にあるのですから。主イエスこそ「神共におられる」(インマヌエル)御方であるからです。その御方を批判し、その御方を抜きにして本当に神の御心に適う礼拝を行なうことができるのかということです。主イエスはそういう根源的な問いを呈しておられるのです。
それなら、主イエスの弟子たちこそ、主の弟子として主と共に生きることの中で、既に安息日の礼拝を守っていることになるのではないか、ということです。なぜなら、主イエスご自身が安息日そのものの御方なのですから。
牧師 柏木英雄