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先週の説教より

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」 ルカによる福音書5章33-39節(9/7説教)

 34節で「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」と主イエスは言っておられます。「花婿」とはメシアのことであり主イエスご自身のことです。主イエスこそ「神共にいます」(インマヌエル)御方です。そういう御方(メシア)が今共にいるのに、どうしてメシアがまだ来ていないかのように断食する必要があるだろうか、喜び祝い感謝しつつ日々を生きるのが当然ではないか、と主イエスは言っておられるのです。

 しかし、35節で「花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」と主イエスは言われたのです。「花婿が奪い取られる時」とは、主イエスが十字架につけられる時のことですが、その時だけのことではないのです。(いや、その時が意味していることでもあるのですが)主イエスが私たちの魂の中から「奪い取られる」時のことです。

 私たちが主イエスによって救われるのが当然であると高を括り、心からの悔い改めを怠り、高ぶった思いの中に生きる時、主イエスが私たちの魂から(霊的に)「奪い取られる」ということが起こるのです。その時、私たちの信仰は無力になるのです。言葉だけの空しい信仰になるのです。主が共にいます充実した信仰の喜びを失うのです。その時には、私たちは「断食する」ような思いで、真剣に悔い改めの祈りを献げなければならない、と主イエスは言っておられるのです。

 38節に「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」とあります。主イエスを信じるのに「ふさわしい」信仰生活などないのです。どういう生活であれ、主イエスを常に新しく祈り求め、主によって新しく生かされる生活が主イエスを信じる生活です。それなら「新しい革袋」とは常に新しく主イエスを祈り求める生活のことです。それが主イエスを信じる信仰生活なのです。

牧師 柏木英雄