先週の説教より
「富んでいるあなたがたは不幸だ」 ルカによる福音書6章24-26節(10/26説教)
主イエスは「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(24節)と言われました。「不幸である」とは「禍いである」とも訳すことができます。何故「富んでいる人」「豊かな人」が禍いなのでしょうか。人間的にはそれこそ素晴らしいことであり、神の祝福のように思えるのですが。それは「あなたがたはもう慰めを受けている」から、と主は言われるのです。
「慰めを受ける」とは、心が満たされ満足し、愉快な気持ちになる(25節)ことです。何故それがいけないのでしょうか。それは心満たされ満足することによって、もはやそれ以上真剣に、必死で(飢えている者のように!21節)主の救いを求めようとしなくなるからです。
それなら、どんなに富んでいても、どんなに人間的には満たされ、愉快に過ごしていても(25節)、「幸いである」と主によって言っていただける道はあるのではないでしょうか。それは自分の罪を知ることです。
人間的・社会的にどんなに富んでいても、神の御前には罪人であり、神の御子キリストが十字架にかからなければならなかったほどの罪が自分にはあることを知ることです。そのことを知って、「飢えている人」「泣いている人」(21節)のように真剣に主イエスの十字架と復活の恵みを祈り求めるのです。その人は主によって「幸いである」と言っていただくことができるのではないでしょうか。
主イエスによって「幸いである」と言っていただく(主の祝福を受ける)ということは、主の霊のご臨在の恵みに生かされ、主の清さに生きる者とされるということです。その時、私たちは自らの富、豊かさを神の御栄のために少しでも役立てようと努めるのではないでしょうか。それが「富んでいる人」の主の幸いに生きる道ではないでしょうか。
牧師 柏木英雄
