先週の説教より
「先にガリラヤへ行かれる」 マルコによる福音書16章1-8節
今日は、主イエスのご復活を祝うイースターであります。
主イエスは、十字架の死を真実に全うされることによって、復活の永遠の命を明らかにしてくださいました。それによって、すべての人間が罪を赦され、主イエスの復活の命(罪と死に勝利する聖い命)に生きることができるように、救いの道を開いてくださったのであります。
どんな人間も、この主イエスの十字架と復活の恵みに頼ることによって、いつでも新しく生き直すことができるのであります。神は、たとえどんなに大きな罪を犯した人間であっても、決してもう駄目だとは言われない、いつでも、もう一度主イエスに頼りながら、やり直してみなさい、と励ましてくださるお方であります。そういう憐み深い神であることが、主イエスの十字架と復活の出来事を通して明らかになったのです。私たちはこの神の恵みに心からの感謝を献げ、いよいよ主キリストの十字架と復活によって示された神の恵みにより頼む信仰の生活を深めたいと思うのであります。
さて、今日のマルコ福音書16章1節以下から御言葉に聞きたいと存じます。
1~2節に「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」とあります。
ここに、主イエスの母マリアの名前がありません。しかしそれは当然のことであったかもしれません。愛する息子イエスが十字架に死んで間もないことですから、とても息子の墓に行く気にはなれなかったのではないでしょうか。
いずれにしても、この3人の女性たちは、主イエスがよみがえることを期待して墓に行ったのではありませんでした。主イエスがよみがえることについて、女性たちがまったく聞かされていなかったとは考えられません。主イエスはご自身の受難と共に復活のことも、男の弟子たちに繰り返し語っておられましたので、女性たちがそのことを聞かされていなかったとは考えられません。しかし、この時の女性たちには主イエスのよみがえりのことなどまったく頭になかったのであります。(主イエスの復活を聞かされた時の8節の婦人たちのうろたえぶりがそのことを物語っています。)主イエスの復活のことよりも、主イエスの十字架の死の現実が圧倒的な現実として女性たちの心を(男の弟子たちの心をも!)占めていたからであります。
ですから、3人の女性たちが、安息日が終わるとすぐ、待ちかねたように朝早く主イエスの墓に行ったのは、主イエスの葬りを改めて丁寧に行うためでありました。主イエスが十字架につけられたのが金曜日の午後でした。その日の夕方から安息日(土曜日)が始まり、一切の労働が禁じられていましたので、主イエスの体は手早く十字架から降ろされ、丁寧な葬りをする暇もなく墓に葬られたのです。その主イエスの十字架の死によって傷つけられた体に、香油を塗って、もう一度丁寧に主イエスの体を葬り直すために、婦人たちは待ちかねたのように、安息日が終わるとすぐ主イエスの墓に行ったのであります。
ここに、男の弟子たちの姿はありませんでした。おそらく男の弟子たちの挫折感はもっと深く、彼らは立ち上がることができなかったのではないでしょうか。この方こそと信じて、すべてを捨てて主の弟子となり、主と共に歩んだ弟子たちでありました。その主イエスが無残にも十字架につけられ、神に呪われた者、人を惑わす者、異端者として断罪されて殺されてしまったのであります。主イエスに対する自分たちの信頼が完全に打ち砕かれてしまったという思いもあったでしょうが、それだけでなく、主イエスが捕らえられた時、弟子たちは何もできなかった、その自分たちの無力さに打ちのめされていたのではないでしょうか。弟子たちは皆、主イエスと共に捕らえられることを恐れて(それこそ主と共にある者にふさわしいことだったのに!)逃げてしまいました。弟子の筆頭格であったペトロは、主イエスが捕らえられ、裁判にかけられる姿を見届けている間に(この世の権威に裁かれる主イエスに躓き!)、何の権限もない一人の女性(女中)から、あなたもあの男の仲間の一人だと指摘された時、思わず誓うように、そんな人は知らないと3度主イエスを否んでしまったのです。自分たちの仲間の一人が主イエスを敵に売ったという衝撃もあったと思います。自分たちの弱さ、愚かさ、無力さ、みじめさに打ちのめされた弟子たちでありました。とても主イエスの墓に行く気持ちにはなれなかったというのが本当のところだったのではないでしょうか。
いずれにしても、男の弟子たちの心の中にも、主イエスのよみがえりについての思いはまったくありませんでした。あれほど繰り返し主イエスの口から、ご自身の受難と共に復活のことを聞かされていても、現実に主イエスの十字架の死が起こった時には、その現実に圧倒されてしまい、主イエスの復活のことなど考える暇もなかったのであります。
なぜ、主イエスはご自身の復活について予告することができたのでしょうか。それは、主イエスがそのご生涯の初めから、神の全能の御力の中に生きておられたからであります。主イエスご自身が全能の神の力を持っていた訳ではありません。その点では、主イエスは私たちとまったく同じ一人の人間であります。ただ主イエスは、心から天の父なる神を信じ、アッバ、父よ、と、ご自身の全てを父なる神に献げつつ生きられたので、天の神が親しく主イエスに臨み、それによって、主イエスは常に罪の肉の働きを清められつつ生きることがおできになったのであります。主イエスが罪の肉を持っていたと言うと、少し言い過ぎのような気がしますが、ローマ書8章3節には「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り」とありますから、主イエスは私たちと同じ一人の人間としてマリアから生まれ、地上を生きられたのであります。ただ主イエスは、いつも聖霊によって守られておられたので、罪を犯すことがなかったのであります。主イエスの肉の働きがいつも聖霊によって清められ、まったく罪から守られていたことが、主イエスが全能の神の御力によって守られていたことの証であります。
主イエスは病をいやす奇跡を行うことがおできになりましたが、これも主イエス自身にその力があったからではなく、主イエスが願えば、天の神が、主イエスの願い通りに全能の御力をもって臨んでくださることによって、そこに奇跡が実現されたのであります。
その意味で、主イエスはすでに神の全能の命の中に生きておられたのです。それ故に、主イエスはご自分の復活を予告することがおできになったのであります。
しかし、主イエスの復活は、主イエスが人間の罪の贖いの死を真実に死ぬことを通して実現されることでありました。主イエスはそのことを知っておられました。主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、主イエスはその決意を心に秘めておられたのであります。しかし、罪の贖いは、ただ十字架にかかればよいというものではありません。十字架につけられても、絶望しない、神への信仰を失わない、人々への愛を失わない、人々を呪わず、人々のためにとりなしの祈りをささげつつ、十字架の死を全うする。つまり、十字架の死において、神への信仰と人々への真実の愛が問われたのです。そのようにして十字架の死を全うすることが、メシアとしての主イエスに課せられた最後のそして最高の課題でありました。
そして主イエスは、神の助けの中でそれが可能であることを信じておられました。主イエスはヨハネ福音書16章33節で「わたしはすでに世に勝っている」と言われました。またゲッセマネの園で「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と言われた時、主イエスはすでに神の守りの中にあってあらゆる死の不安と恐れから守られ、十字架の死を全うする覚悟をもっておられたのであります。
そして、主イエスの十字架の死の真実を、天の神がご覧になったのです。主イエスの十字架の死が偽りのない真実な死であり、人間の罪を贖う死であることを、天の神が承認されたのです。それ故に主イエスは、十字架の死に伏され、陰府に下られましたが、神の全能の御手が、死の力を完全に滅ぼすために、三日目に陰府の世界に介入され、主イエスはよみがえらされたのであります。
主イエスの十字架の死の真実によって、主イエスの復活が実現されたのです。主イエスの復活は、ご自身にとっても決して自明のものではありませんでしたが、主イエスは、神との真実の交わりの中ですでに神の全能の御力の中に生きておられた故に、十字架の死を全うすることを通して復活の命を明らかにすることを、予告することができたのであります。
さて、婦人たちは墓の中に入ると、5節「白い長い衣を着た若者」が座っているのを見たのであります。主イエスの体が置かれているはずの墓の中に主イエスの体がないという不可解な事実の中に、神の啓示(神の語りかけ、神のメッセージ)が示されているのであります。聖書はそのことをこのような天使の存在をもって言い表しているのであります。この天使によって婦人たちは、主イエスが復活されたことを告げられ、男の弟子たちへの伝言を託されたのであります。
7節「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。
ここに「弟子たちとペトロに」とあります。直訳すれば「弟子たちに、そしてペトロに」となります。つまり、ペトロの名前があえて取り上げられているのであります。
ここに、ペトロに対する復活の主イエスの配慮が示されているのではないでしょうか。
ペトロは、主イエスが捕らえられた時、3度「知らない」と主イエスを否定してしまいました。その前には(主イエスとの最後の晩餐の時に)「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言い、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14章29節)と力を込めて言い張ったペトロでありました。そのペトロが、まるで罠にかかったように、もろくも主イエスに躓いてしまったのであります。
このペトロへの配慮がここに示されているのではないでしょうか。
信仰は、自分の力で守ることはできません。主が共にいてくださる、主のご臨在の助けがなければ、主イエスを信じる信仰を守ることはできないのです。しかしペトロは、自分たちが主の弟子として生きることができたのは主が共にあって守っていてくださったからであることを、まだ十分に理解することができなかったのです。いつの間にか自分の力で(自分の真剣さ、自分の誠実さで)主イエスへの信仰を守ることができるように思っていたのです。心の高ぶりがあったのです。
しかし、主イエスが捕らえられ、それによって主から離された時(主イエスの心はペトロから離れてないのですが、ペトロの心はこの世の力の支配に惑わされて、主イエスへの信頼から離れたのです!)、ペトロは自らの無力を思い知らされたのです。主イエスから離れた時、自分がまったく無力な者であること、自分もまた主イエスを信じない人間であること、いや、主イエスを拒んで十字架につけるこの世の人間の一人であることを、ペトロは思い知らされたのであります。
それはペトロにとってまことに辛いことだったのではないでしょうか。主イエスが十字架につけられることは、もちろん耐えがたいことでありましたが、主イエスに対する自らの不真実、不誠実、不信仰を思い知らされることは、それにもまして辛いことであり、情けないことだったのではないでしょうか。
復活の主イエスはそのペトロを気遣い、あえてペトロの名をあげて励ましておられるのであります。
「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。~そこでお目にかかれる」と天使は告げました。
なぜ「ガリラヤ」なのでしょうか。ガリラヤは、弟子たちが最初に主イエスに出会った場所であります。ガリラヤで弟子たちは、主イエスに「わたしに従ってきなさい」と声をかけられ、弟子たちは、この方こそ本当に信頼できるお方と信じて、すべてを捨てて、主の弟子になったのであります。
そのガリラヤに先に行かれ、そこで弟子たちを待ち、再び弟子たちに会ってくださる、と復活の主は言われるのであります。
顔を合わすことができない思いの弟子たちだったのではないでしょうか。しかし主イエスは、その弟子たちに会ってくださるというのであります。このことの中に、すでに主イエスの十字架の愛が示されているのであります。
復活の主イエスがガリラヤで再び弟子たちに会うということは、もう一度弟子たちを召すということであります。いや、今こそ、本当に主の弟子として召す、ということであります。
主イエスの十字架の死を知り、その死の中に、自分たちの罪の贖いも含まれていることを知ることができた時、弟子たちは、主イエスの復活の命に生かされるものとされるのです。そして、その時にこそ、本当に主の弟子として、主の福音を宣べ伝える者となることができるのであります。
主イエスは、今こそ、弟子たちを主の弟子として用いようとしておられるのであります。ガリラヤで会うという復活の主の御言葉には、そういう意味が込められていたのであります。
婦人たちを通して、この天使の伝言を聞かされた弟子たちは、どういう思いでこの伝言を聞いたのでしょうか。虚無と絶望の中に、また、自分たちの弱さの中にうずくまるようにして立ちすくんでいた弟子たちの心が、温かく包まれ、癒される思いを与えられたのではないでしょうか。特にペトロは、自分の名があげられていることによって、復活の主の憐みを深く感じ取ることができたのではないでしょうか。
「ガリラヤ」という言葉が懐かしく、しかし、新しい響きをもって弟子たちの心を励ましたのではないでしょうか。深い挫折の中にあった弟子たちは、こうして復活の主に励まされて、新しい望みのうちに、今こそ主の弟子として生きるものとされたのであります。
武山教会牧師 柏木英雄