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先週の説教より

「すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」 マルコによる福音書16章14-18節

主イエスのご復活を覚えつつ、礼拝を献げたいと存じます。

まず、主イエスの復活をめぐって、いくつかのことを整理してみたいと思います。弟子たちが復活の主イエスに最初にお会いした場所はガリラヤであったか、それともエルサレムであったかという問題です。確かに、主イエスは弟子たちに「ガリラヤで会う」と言われました。しかし、ルカ福音書やヨハネ福音書を見ると、弟子たちはすでにエルサレムで復活の主イエスにお会いしているようなのです。つまり、この点で聖書の記事は不明確というか統一性を欠いています。しかし、それによって聖書の信ぴょう性を疑うというのではなく、むしろ、復活の主イエスの自由な主権性の中で、復活の主が必要と思われる時と所に自由にご自身の復活顕現を行っておられる、と理解すべきだと思います。

そこで、大まかな整理をすればこのようになるのではないでしょうか。確かに、復活の主イエスはガリラヤで弟子たちに会い、今日のマルコ福音書16章14節以下にありますように、いわば「宣教命令」を与えて、弟子たちを正式に主の弟子として召されるのですが、その前にもエルサレムで弟子たちにご自身の復活を証ししておられるのです。それは、復活の主イエスに矛盾があるのではなく、ガリラヤでの正式な「宣教命令」に備えるという意味があったのではないでしょうか。そういう準備をした上で、ガリラヤで正式に弟子たちを召して、福音宣教に遣わされたのです。その後、弟子たちは再びガリラヤから(主イエスが十字架にかかり復活された)エルサレムに戻って、そこで「聖霊」の約束に従って、祈りつつ待ち、そしてペンテコステ(聖霊降臨日)の日に聖霊を受け、全世界に向かって福音宣教に出発していくのです。大まかにこのようにまとめることができると思います。

また、主イエスの復活についてこういう問題も考慮に入れなければならないと思います。それは、使徒言行録1章3節に「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあることです。ここに「四十日にわたって彼らに現れ」とあります。つまり、主イエスはご自身の復活を40日間にわたって繰り返し弟子たちにお示しになったのです。それだけ主イエスの復活が信じ難いことだったからです。その信じ難い出来事を弟子たちがしっかりと心に刻み、どんなことがあっても復活の主イエスにより頼み、主の霊のご臨在の恵みの中に生きることができるようにするために、主イエスは40日間にわたって繰り返しご自分の復活を弟子たちに示されたのです。それなら、主イエスの復活顕現はガリラヤとエルサレムに限らないということです。いつ、どこでも、必要な時に主イエスは繰り返しご自身の復活を弟子たちに示されたのです。そして弟子たちが心から主イエスの復活を信じて生きることができるように導かれたのです。主イエスの復活について聖書の証言がばらばらで統一性がないように見えるのには、そういう背景があったことを考えなければならないと思います。

これらのことを踏まえつつ、今日のマルコ福音書16章14節以下を味わってみたいと思います。

14節に「その後、十一人が食事をしているとき」とあります。場所はガリラヤです。そのことはここには記されていませんが、マタイ福音書28章16節に「ガリラヤ」と明記されています。その後とは、前に記されていることを踏まえてということです。主イエスの墓に行った婦人たちから復活の主イエスが先にガリラヤへ行き、弟子たちを待っているという知らせを聞いたこと、また9節以下で、マグダラのマリアが実際に復活の主イエスに出会ったことを聞いたけれども、弟子たちはその話を信じられなかったこと、二人の弟子が復活の主イエスに会ったことを告げられても、それを信じることができなかったこと、それらのことがあった後、ということです。それにもかかわらず、ユダを除く11人の弟子たちがガリラヤに来て、食事を共にしたということは、再び主イエスの弟子としての「一体性」が戻ってきたことを意味する、と考えることができます。主イエスの十字架の死によって弟子たちは羊が散らされるようにばらばらになってしまったのです。主イエスの十字架の死の衝撃によって、弟子たちは文字通り心も体もばらばらにされ、主の弟子としてのアイデンティティーを失ってしまったのです。しかし、主イエスが復活して生きておられるという知らせが様々な形で弟子たちの耳に届くことによって、それがまさに「福音」として弟子たちの心に働き、弟子たちは改めて主の弟子としてのアイデンティティーを回復し始めたのです。主イエスの復活は信じがたいことでしたが、その知らせが弟子たちに届くことによって、何より復活の主イエスご自身がガリラヤへ先に行って弟子たちを待っていてくださるという伝言が弟子たちの心を捕らえることによって、ばらばらであった弟子たちは再び一つに集められ、こうして11人の弟子たちが揃ってガリラヤで復活の主を待ちつつ食事を共にするに至ったのです。「その後」とはそういう背景を持っていると考えられます。

その弟子たちの前に、突然、復活の主イエスがご自身を現わされたのです(14節)。ルカ福音書24章36節以下には、復活の主イエスが弟子たちの前にご自身を現わされた時、弟子たちは「亡霊」を見ているように思ったと記されています。その時、主イエスは「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(38~39節)と言われ、焼いた魚を弟子たちの前で食べて見せられた(42~43節)と記されています。主イエスの復活の体が本当に実在の体であることについては、次の機会に少し詳しく考えてみたいと思いますが、主イエスは実在の体をもって、しかし、私たちのように時間と空間に制約されず、全く自由に、神の主権性をもって弟子たちの前にご自身を現わされたのです。11人の弟子たちが食事の席についている時、復活の主イエスはそのようにしてご自身を弟子たちに現わされたのです。

復活の主イエスが11人の弟子たちに最初にお語りになったのは、弟子たちの「不信仰とかたくなな心」をとがめる言葉でした。「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(14節)と言われています。確かに、弟子たちは(私たちがそうであるように!)なかなか主イエスの復活を信じることができなかったのです。「ガリラヤでお会いする」という復活の主イエスの伝言に新しい望みを与えられた弟子たちでしたが、実際に復活の主イエスを信じることになると、「本当かしら」という疑いの気持ちを禁じえなかったのです。マタイ福音書28章17節には、実際に復活の主イエスに会っていながら、「しかし、疑う者もいた」と記しています。復活の主イエスに実際に会っていながら、そのイエスの実在性を疑ってしまうのです。先ほどのルカ福音書にありましたように、復活の主イエスが手や足を持ち、焼いた魚を食べるという人間の実在性が強調されればされるほど、私たちの頭は混乱してしまい、復活の主イエスの実在性を疑ってしまうのです。死んだ人間が生き返ることはありえないと思っているからです。

しかし弟子たちは、生前の主イエスが神の全能の御力によって生きておられる姿を親しく見てきたはずなのです。多くの病める人をいやし、実際に死んだ人をよみがえらせる奇跡も行われたのです。何よりも弟子たちは、主の弟子として主と共にあることによって、不思議な心の平安を与えられ、心の清さを与えられつつ生きる幸いを味わったはずなのです。そういう主イエスの中に働かれる神の全能の御力を知りながら、それでも主イエスの復活を信じることができなかった弟子たちの「不信仰と心のかたくなさ」を復活の主イエスは責められたのです。

私たちはどうしたら主イエスの復活を心から信じることができるのでしょうか。それは、主イエスの十字架の死の真実から、主イエスの復活を信じるのです。主イエスの十字架の死が真実に神を信じる死であり、人々を愛する死であったことを、天の神が承認してくださった故に、陰府に下られた主イエスの死の体に全能の神の御力が加えられることによって、主イエスは復活させられたのです。主イエスが生前、神の全能の御力によって罪の働きを殺しつつ(ローマ8章13節)まことの清さに生きられたように、今や主イエスは、同じ神の全能の御力によって、人間の最後の敵である死の力を打ち破ることによって、文字通り、罪と死に勝利する救い主として、ご自身を現わされたのです。

天の神は、主イエスの十字架の死が一点の曇りもない真実の死であることを承認されたのです。主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んで十字架上で息を引き取られました。主イエスは神に「捨てられた死」を死なれたのです。すべての罪ある人間の裁きを一人で身に受け、神の呪いの死を死なれたのです。神は主イエスをお助けになりませんでした。主イエスは敵の手に渡され、全く無力に、無残に、敵の言いなりになって神に呪われた者として十字架の断罪を受けられたのです。「なぜ神はわたしをお見捨てになるのか」と主イエスご自身が思ったほどに、神は何の助けも与えられなかったのです。そのようにして主イエスはすべての人間が受けるべき裁きの死を極みまで受けてくださったのです。しかし、それでもなお主イエスご自身は父なる神を信じられたのです。父なる神が主イエスをお見捨てになっても、主イエスは神を信じ抜かれたのです。宗教改革者カルヴァンは、「わが神、わが神」と叫ばれる主イエスの叫びの中に、父なる神への信頼が表されていると言っています。主イエスは最後まで父なる神を信じつつ、その信頼のただ中で息を引き取られたのです。天の神は、この主イエスの神信頼の真実をご覧になったのです。主イエスが一点の曇りもなく、真実に神のためにそして人々の救いのために罪の贖いの死を遂げられたことを神がお認めになったのです。それ故に、誰もその道を開くことができなかった死に勝利する復活の命の道が、主イエスによって開かれたのです。主イエスの復活は私たち人間理性の躓きです。しかし、主イエスが十字架の死を真実に死なれることによって復活の命の道を開いてくださったことを知る時、私たちは心からの感謝をもって主イエスのご復活を信じることができるのです。

弟子たちは、生前の主イエスの「神共にいます」力ある歩みを知っていたし、主イエスの十字架がすべての人間の罪の贖いの死であることを繰り返し前もって聞いていたはずなのに、実際に主イエスの十字架の死が起こると、その死の現実に圧倒されて、全く主イエスの復活を信じることができなかったのです。その弟子たちの「不信仰と心のかたくなさ」を復活の主はお責めになったのです。

しかし、主イエスの叱責は愛の叱責です。なぜなら、復活の主イエスは十字架の主イエスでもありましたから。すべての罪をご自身の十字架において赦した上での叱責でしたから。そもそも復活の主イエスが弟子たちに会ってくださること自体がすでに赦しでしたから。弟子たちは、復活の主イエスの中に十字架の主を、いや、生前の愛と赦しに満ちた主イエスを見ることができたのです。それ故に、弟子たちは自分たちの不信仰と心のかたくなさを心から恥じる思いをもって主イエスの叱責を聞くことができたのです。

弟子たちの不信仰と心のかたくなさをとがめられた復活の主イエスは、15節「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われました。復活の主イエスを信じることは、即、全世界に出て行って、主イエスの十字架と復活における福音の真理を宣べ伝えることなのです。主イエスの十字架によってすべての罪が赦されているのです。どんなに弱く、愚かで、繰り返し過ちを犯す人間の罪であっても、主イエスはそれを十字架によって担い、赦していてくださるのです。主イエスの十字架によって赦されていない罪はないのです。だから、いつ、どんな時でも主イエスの十字架の赦しに頼るべきだし、頼ることができるのです。私たちは自分で自分の罪を赦すことができないのです。自分の罪に我慢がならないのです。しかし私たちの本当の主人は自分ではなく、主イエスなのです。このお方の罪の赦しに絶えず立ち帰るべきなのです。自分で自分を赦さないという思いも捨てて、全く一人の罪人になって、主イエスに頼るのです。主イエスの十字架の赦しに頼ると共に、主イエスの復活の命に頼るのです。主イエスの復活の命は、死人をよみがえらせる神の全能の御力によって私たちの罪を清め、私たちを新しい命に生かしてくださるからです。ただ罪を赦されるだけでは本当の救いとは言えません。罪赦された者が本当の清さに生きることができて、初めて本当の救いと言えるのです。そして主イエスにはその力があります。主イエスは事実人間の死を打ち破って復活されたのですから。

心から主イエスの赦しに頼る時、私たちは主イエスの復活の命に与って、まことの清さに生きることができるのです。ただ、私たちはその清さを自分の所有にすることはできません。その清さは主ご自身のものだからです。絶えす新しく主に立ち帰り、主ご自身の御手からいただかなければならないのです。その意味で「一日の苦労は一日にて足れり」です。今日一日、十分に主の恵みに生きることができなくても、明日新たな思いで、主に立ち帰りつつ生きることが許されているのです。これが、主イエス・キリストの十字架と復活によって示された神の救いであり福音です。主イエスの十字架と復活を信じる者は、この福音をすべての人間に宣べ伝えることが求められているのです。神に造られたすべての人間は、この福音によって生きる以外に人間として正しく生きる道はないのですから。

 16節に「信じない者は滅びの宣告を受ける」と言われています。「信じない者」とは、魂に福音の真理が届いているのに信じない人のことです。主イエスの十字架と復活の真理を知りながら信じない人のことです。弟子たちも「不信仰で心のかたくなな者」でしたが、弟子たちは主イエスの十字架と復活の真理をまだ本当には知らなかったからです。復活の主イエスに出会い、主イエスの十字架と復活の本当の意味を知ることができた時、弟子たちは心から主イエスを信じる者となったのです。もちろん弟子たちはそれまでも主イエスを信じていましたが、主イエスの十字架と復活の本当の意味を知らなかったために、主イエスの十字架に躓いてしまったのです。主イエスの十字架と復活の本当の意味を知ることができた時、弟子たちは命をかけて十字架と復活の主を宣べ伝える者となったのです。

問題は、人の魂に福音が福音として届いているかどうかです。多くの人は主イエスの十字架と復活の本当の意味を知らないのです。自分の先入観や誤った理解で自分流に福音を受け止め、そのために信じないのです、いや、信じられないのです。私たち先に召された者は自分が宣べ伝える福音が本当に福音として相手に伝わっているかどうかを吟味すべきなのです。自分は福音のつもりでも、律法として押し付けていないか、福音の名のもとに自分の正しさや優越を宣べ伝えていないか、自らを吟味すべきなのです。もっとも、相手に福音が福音として伝えられているかどうかは神のみぞ知りたもうところであって、私たちが詮索すべきことではありません。私たちはただ神が正しく裁いてくださることを信じて、すべてを神にゆだねつつ、心を砕きながら、福音宣教に励む以外にないのです。

17節以下に信じる者に伴う「しるし」について語られています。18節は異様な感じがします。しかし、これは聖書的な表現なのです。聖書が書かれている時代に限定された状況の中での神の奇跡です。今日の時代における信じる者のしるしとして一番当てはまるのは、17節「新しい言葉を語る」でしょう。「新しい言葉を語る」とは、主イエスの十字架と復活によって自らの魂が救われていることを喜ぶ喜びの言葉ではないでしょうか。他者を置き去りにするような独善的な喜びの言葉でなく、それによって人々が喜んで主の救いを求めるようになる喜びの言葉です。そのような喜びを心と体に表しながら生きることが私たち信仰者の日々の課題ではないでしょうか。

復活の主イエスは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われました。この復活の主の宣教命令を深く受け止めたいと思います。

武山教会牧師 柏木英雄