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先週の説教より

「わたしを愛しているか」 ヨハネによる福音書21章1-19節

 今日も、主イエスのご復活を覚えつつ、礼拝を献げたいと存じます。

 弟子たちは、主イエスの十字架に躓き、主イエスへの信頼を失い、全く主の弟子にふさわしくない者になってしまいましたが、ガリラヤで復活の主イエスに出会うことによって、もう一度主の弟子として立て直されていくのです。その意味で、ガリラヤにおける復活の主イエスとの出会いは弟子たちにとって決定的な意味を持つものとなりました。今日のヨハネ福音書21章1節以下には、そういう弟子たちと復活の主イエスとの出会いと弟子たち自身の「復活」の物語が記されているのです。

 1節に「ティベリアス湖」とあるのは、ガリラヤ湖のことです。ガリラヤの領主ヘロデが当時のローマ皇帝ティベリウスの名にちなんで、ガリラヤ湖をティベリアス湖と呼んだのです。

 14節に「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」とあります。つまり、弟子たちはすでに復活のイエスに少なくとも2回はお会いしているのです(3度目というのを文字通りにとるなら)。ということは、弟子たちはすでに主イエスの復活を知っているのです。弟子たちは主イエスの復活を信じ始めたのです。そして弟子たちが主イエスの復活を知り始めたということは、弟子たちに「新しい望み」が生まれたことを意味したのではないでしょうか。そのことを考えるなら、3節でペトロが「わたしは漁に行く」と言い、他の弟子たちが「わたしたちも一緒に行こう」と言っているのは、主イエスの復活を知らず、絶望して郷里ガリラヤに帰り、前の漁師の仕事に戻ろうとしている弟子たちの会話ではなく、主イエスの復活の事実を知らされ、「新しい望み」(その具体的な内容を弟子たちはまだ明確には知らなかったのですが)を心に抱きつつあった中での弟子たちの会話だったと思います。

 弟子たちは、自分たちがこれからどうなるのかまだ知らないのです。主の弟子として再び召される明確な自覚はまだなかったのです。むしろ、主イエスの十字架に躓き、主の弟子にふさわしくない者になったという心の痛みをまだ抱いていたのです。それでも弟子たちは、今や、主イエスが復活して生きておられるという明るい望みの光の中に包まれていたのです。まだ主の弟子として生きるという明確な方向性は与えられていない、いわば宙ぶらりんの状況の中にあって、たまたま時間の余裕ができたか、あるいは必要に迫られてか、「昔取ったきねづか」で再び漁の仕事に出かけたというのが、この時の弟子たちの状況ではないでしょうか。いずれにしても、この時、弟子たちは決して絶望していたわけではなく、新しい望みと期待を胸に秘めつつ、漁の仕事に出かけたのです。そして復活の主イエスは、この時を「三度目の」弟子たちとの交わりの時として、また、弟子たちが再び主の弟子として生きていく決意を固める時として用いられたのです。弟子たちは、かつてガリラヤで主イエスによって弟子として召された時と同じ状況に再び身を置くことによって、改めて主の弟子として召される機会を与えられたのです。

 かつて主イエスはペトロたちに沖へ漕ぎ出して漁をしてみなさいと言われました(ルカ福音書5章1節以下)。その時ペトロは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って、主イエスが言われる通りにすると、大量の魚が網にかかり、網が破れそうになり、舟が沈みそうになったのです。この奇跡を経験して、ペトロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言って、主イエスの御前にひれ伏したのです。そのペトロに対して、主イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われ、ペトロはすべてを捨てて主の弟子となったのです。

 しかし今、ペトロは深い挫折感を抱いていました。主イエスの十字架に躓き、捕らえられた主イエスに対して、そんな人は知らないと3度否んだのです。主イエスはこのペトロの心の痛みを知っておられ、弟子として召されたかつてと同じ経験をさせることを通して、もう一度、いや、今こそ本当に主の弟子としてペトロを召そうとされたのです。ペトロに対する復活の主イエスの深い配慮が感じられます。

 ペトロたちは久しぶりにガリラヤ湖で漁をしたのです。そしてその夜は、かつてと同じように一晩中漁をしたのに一匹の魚も取れなかったのです。空しく岸に戻ってくると、一人の人が岸に立っていて、「子たちよ、何か食べ物があるか」と問い、「ありません」と答えると、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)と言ったのです。ペトロたちはそれが復活の主イエスだとは知りませんでした。久しぶりの漁で、一匹の魚も捕れず疲れ果てて岸に戻ってきたのです。今さら網を降ろしたところで魚が取れるはずはないと思ったのではないでしょうか。しかし「舟の右側に」という具体的な指示がペトロの心を捕らえたのではないでしょうか。その通りにしてみると、あまりに多くの魚がとれ、網を引き上げることができなかったのです。その時、そばにいた同僚のヨハネが「主だ」と叫んだのです。ヨハネは鋭くかつての経験を思い出し、岸辺で指示した人が主イエスであることに気づいたのです。そのヨハネの指摘によって、ペトロもそれが復活の主イエスであることに気づくと、「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込み」(7節)、いち早く復活の主イエスのもとに「はせ参じた」のです。

 かつて同じ経験をした時、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い人間です」と言って主イエスの御前にひれ伏したペトロが、今や、誰よりも早く主イエスのもとに行こうと湖に飛び込むペトロに変わっていたのです。主イエスを3度否んで、全く主の弟子にふさわしくない者になってしまい、主イエスに顔を合わすことができない人間になってしまったはずなのに、復活の主イエスであることがわかると、誰よりも早く主イエスのもとにはせ参じる人間に変わったのです。

 なぜでしょうか。復活の主イエスが自分たちのすべての罪、すべての弱さを赦していてくださるお方であることを、ペトロが知り始めたからです。主イエスの十字架がそのための業であることを知り始めたからです。それ故に、今や、自分の罪深さを恐れる必要がないことを知り始めたからです。

 主イエスの復活を知ることによって、変わり始めた弟子たちでした。主イエスの復活が本当であることを知ることによって、主イエスの十字架の死が本当に罪の贖いの死であることを知り始めた弟子たちでした。かつて主イエスから聞かされていたことが本当のことであることを悟り始めた弟子たちだったのです。こうして弟子たちは、主イエスの十字架に躓き、主の弟子としてのアイデンティティーを失いかけていたにもかかわらず、再びそれを取り戻すことができるように導かれたのです。復活の主イエスが弟子たちをお見捨てにならなかったからです。傷ついた弟子たちの心を癒すように、さりげなく、しかし、深い配慮を復活の主は弟子たちに与えてくださったのです。

 9節以下に、弟子たちが復活の主イエスと共に朝の食事をする感動的な場面が記されています。弟子たちが陸に上がってみると、炭火がおこしてあり、その上に魚がのせられ、パンも用意されていたのです。復活の主イエスがすべて用意して待っていてくださったのです。それなら、復活の主イエスは一晩中悪戦苦闘して一匹も捕れなかった弟子たちのことも知っておられたのです。いや、それ以上に、弟子たちが主イエスの十字架に躓き、主イエスを見捨てて逃げてしまうことも、ペトロが3度主イエスを否むことも、主イエスが十字架にかかった後、深い心の痛手を受けて主の弟子として立ち上がる気力を失い、ばらばらになり、もはや主の弟子としての一体性を保つことができなくなり、本当に主の弟子であることをやめてしまいそうになっていた弟子たちのことも、復活の主イエスは知っておられたのです。そして、そういう弟子たちのために深い配慮をもって導いてくださるお方であることを弟子たちは知ることができたのです。

 そうであれば、復活の主イエスは決して弟子たちをお見捨てになっていなかったのです。それどころか、全く主の弟子にふさわしくなくなった弟子たちを再び主の弟子として用いようとしていてくださることを弟子たちは知ったのです。岸に上がって、赤く燃える炭火の上に魚がのせられ、香ばしい香りが漂い、そばにパンが用意され、すべてが自分たちのために備えられている様を見て、弟子たちは改めて主イエスが深い愛と赦しの中に弟子たちを受け止めていてくださることを知ることができたのです。

 弟子たちの中に、誰も「あなたはどなたですか」と復活の主イエスに問いただす者がいなかったと12節に記されています。そのようなことを口に出して言う必要もないほどに弟子たちの心は満たされていたのです。静かな沈黙の中に、復活の主イエスとの朝の食事が行われました。食事は何よりも弟子たちの心を深く満たしたのではないでしょうか。すべてが赦され、守られ、導かれているという深く温かな気持ちが弟子たちの心を満たす、復活の主イエスとの豊かな食事の交わりとなったのです。

 豊かな食事の交わりの後、改めてペトロの召しが行われたのです。もう十分に理解し始めていたペトロでしたが、主イエスは、改めて言葉に出して、主の弟子として生きるようにペトロを召されたのです。復活の主はペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)と問われたのです。「この人たち以上に」と言われました。これはかつてペトロが「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ福音書14章29節)と言ったペトロの言葉を踏まえてのものでした。かつてあなたはほかの誰よりもわたしを信じている、ほかの者がつまずいても自分は決してつまずきません、と言ったけれども、そのように誰よりも、わたしを愛しているか、と問われたのです。この時、ペトロは、そう言いつつもものの見事に主イエスに躓き、ほかの誰よりもはっきりと言葉に出して、3度「そのような人は知らない」と否んでしまった自分のことを思い出したのです。しかし、思ったのではないでしょうか。確かにあの時は、本当に主イエスの十字架の死が信じられなかった。それはメシアの敗北であり、挫折以外の何物でもないように思えた。しかし、主イエスの復活によって、主イエスの十字架が本当にすべての人間の罪の贖いの死であり、自分の罪もまた主の十字架によって贖われていることが今はわかる。今こそ主を愛する、主を愛する以外に自分の生きる道はない。主に背いて誰よりも主の弟子にふさわしくない者になってしまったわたしも主はお見捨てにならない。この主イエスの愛の故に、わたしは誰よりも主イエスを愛する。この心に偽りがないことを、復活の主ご自身が知っていてくださる。そういう思いを込めて、ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15節)と答えたのです。すると、復活の主イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言われたのです。ここで初めて、復活の主イエスは、言葉に出して、ペトロを牧者として召されたのです。こうして、主イエスを3度否定することによって自ら主の弟子であることを否定してしまったペトロが、正式に主の弟子として召されたのです。深い喜びがペトロを包んだのではないでしょうか。

 ところが、それだけでは終わりませんでした。復活の主イエスはさらに同じことを2度、つまり、計3度、同じことを繰り返されたのです。これによってペトロは、復活の主があの自分の3度の否みに触れておられることを、改めて自覚せざるを得なかったのです。「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」(17節)と記されています。ペトロが「悲しくなった」のは、復活の主イエスが自分の言うこと、自分が主イエスを心から愛していることを信用してくれていないと思ったからではないでしょう。そうではなく、主イエスが自分のあの3度の否みを取り上げておられることに気づいた時、ペトロはあの3度の否みが主の弟子としてあってはならない「重大な過ち」であることを、改めて思い知らされたからです。それで悲しくなったのです。

 なぜ、あのようなことが起こってしまったのでしょうか。主イエスのためなら死んでもよいと、主イエスの御前で、弟子たちの間で胸を張ったペトロであったのに。まるで罠にかかるように主イエスを否んでしまったのです。あの時、主イエスが捕らえられこの世の権威者の前で裁かれる姿を見て、主イエスが本当に「別人」のようにペトロには思えてしまったのです。この世の権威のほうが本当であり、主イエスの権威のほうが取るに足りないものに思えたのです。それによって主イエスを信じることが空しいことに思えたのです。自分が信じてきた方はこんな無力な人ではない、こんなに無力なイエスを見たことがない、この人は自分が知っている主イエスではない、別人である。そうペトロは思ったのです。たとえ一瞬であったとしても、そう思った時、ペトロの不意を突くように、一人の何の権力もない女性によって「あなたもあの男の仲間だ」と言われ、とっさに「そんな人は知らない」と言ってしまったのです。知らないわけはないのです。ただ、この人は自分が信じ、愛し、すべてを献げて従って来た方ではない、と思ったのです。そう思っている間に、3度、弁解の余地のない仕方で主イエスを否んでしまったのです。

 ペトロは、あのような無力なイエスはいらない、もっと栄光に満ちたイエスであってほしい、自分はそういうイエスの弟子でありたい、と思ったのです。そこに、深い罪があるのです。自分の弱さ、愚かさ、惨めさを見ないで、強く栄光ある自分を求める罪があるのです。主イエスはそういうペトロのために十字架にかかってくださったのです。そういうペトロの罪を贖うために、主イエスご自身が罪人の立場に身を置いてくださったのです。神の御力に満ちた真に力あるお方が、そのすべてを捨てて、誰よりも低く、しもべの姿となって、この世の権威者の前に立ってくださったのです。その時、裁かれているのは主イエスではないのです。主イエスを裁くこの世の権威が裁かれているのです。主イエスの本当の尊さを認めず、あえて大罪人として主イエスを呪いの木につける人間の罪が裁かれているのです。そして、自分もその裁かれている人間の一人である、とペトロは思ったのです。

 ペトロがこのことを理解できるようになったのは、主イエスの復活を知ってからのことでした。主イエスが本当に神の全能の御力によって、人間の死に勝利され、神の永遠の命の中に生きておられることを知り、その主イエスの復活の光の中で、主イエスの十字架の死について教えられた時、ペトロはそのことを理解することできたのです。ペトロは今や、主イエスの十字架と復活こそ、主イエスにおける神の限りない罪の赦しであり、罪人を清めて、神の永遠の命に生かしてくださる神の救いであることを知ったのです。そのことを心の底から信じることができたのです。その時、ペトロは改めてこのお方を愛し、このお方と共に生きる以外に自分の人生はない、今まで主の弟子として主と共に歩むことを許されたのは、この十字架と復活の主イエスを信じて生きるためであった、と思ったのです。そのように思った時、ペトロは「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(17節)と答える以外になかったのです。

 主イエスを愛するとは、主イエスに対する自分の愛、自分の信仰の熱心によって生きることではありません。それでは躓いてしまいます。ペトロと同じように。主イエスが愛してくださる愛に、身をゆだねることです。まず主イエスが愛してくださるのです。無条件に十字架の愛をもって、主イエスに背く私を受け入れてくださるのです。その主の愛に身をゆだね、その主の愛を信じて生きることです。主イエスの愛から離れないことです。繰り返し主イエスの愛に立ち帰り、主イエスの復活の命によって清められることを求めることです。それが主イエスを愛することです。

 そのように主イエスを愛することなら、私たちにもできるのではないでしょうか。いや、そのような主イエスの愛に頼る以外に、私たちが生きる道はないのではないでしょうか。主イエスの限りない愛を知りつつもそれを拒む自らのはかり知れない不従順を思う時、胸を張って、私は主を愛しますと言うことはできなくても、ペトロのように「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言うことはできるのではないでしょうか。

武山教会牧師 柏木英雄