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先週の説教より

「神からのメシアです」 ルカによる福音書9章18-20節(9/20説教) 

 18節に「イエスがひとりで祈っておられた」とあります。これはヨハネ6章15節によれば、人々が主イエスの五千人の給食の奇跡を目の当たりにしてイエスをこの世の王にしようとした、その動きを避けて、主イエスが一人静かに祈りの時を持とうとされたからです。主イエスの五千人の給食の奇跡を見て、主イエスをこの世の王にすれば自分たちの生活が良くなると考えた人々の気持ちはよく分ります。しかしそれは、神への悔い改めを抜きにして神の救いを得ようとする安易な気持(御利益信仰)と同じことです。主イエスはそういう考え(信仰)は神の御心ではない、と言われるのです。

 主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と尋ねられた時、ペトロは弟子たちを代表して「神からのメシアです」と答えました(20節)。その答えは正しかったのです。しかし、大切な視点が欠けていました。それは主イエスが苦難を通して救いを実現する「苦難のメシア」であるという点でした。その点についての理解がまだ弟子たちにはなかったのです。

 弟子たちは、主イエスが聖霊に満ち、神の全能の御力に生きる聖なる御方であることを心から信じたのです。しかし、その御方が苦難を通して救いを実現するメシアであることを信じることができなかったのです。ユダは主イエスの十字架の死が避けられないこと(定め)であることを知った時、イエスを敵に売って金もうけの機会にするというサタンの誘惑に勝つことができなかったのです。ペトロは裁きを受ける主イエスの姿を見て「そんな人は知らない」と三度主イエスを否定しました。そこに人間の深い罪がありました。主イエスはそういう罪を十字架の死によって贖うことを通して救いの道を開くことがご自分のメシアとしての使命であるとお考えになっていたのです。

牧師 柏木英雄