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先週の説教より

「心が燃えていた」 ルカによる福音書24章13-35節

 本日と次主日において、引き続き、主イエスのご復活を覚えつつ礼拝を献げたいと存じます。そしてその後、ペンテコステ(聖霊降臨日)の出来事に移っていきたいと思います。

 主イエスのご復活の様を記す聖書の記事がいくつかありますが、その記述の仕方は必ずしも統一がとれているとは言えないように思います。率直に言えばバラバラな感じがします。しかし、この事実は、主イエスの復活の事実の「曖昧性」を意味するものでは決してなく、むしろ、主イエスのご復活が事実(本当に起こったこと)であり、しかも、復活の主の「自由な主権性」の中で行われている出来事であることを意味しているのです。つまり、復活の主ご自身が、今はこの人に、今はあの人にと自由にお選びになる人にご自身を現わしておられるのであって、何かの規則や法則に従っておられるのではない、言い換えれば、ご自身の自由な愛に従って行動しておられるということなのです。

 例えば、今日の個所には、二人の弟子に復活の主イエスがご自身を現わされたことが美しく詩情豊かに表現されていますが、この二人の弟子は全く無名の弟子です。一人の名は「クレオパ」(18節)と言われていますが、どういう弟子であるかは全く分かりません。そして33節に「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって」とありますから、この弟子たちは「使徒」ではありません。なぜ復活の主はそのような無名の弟子を選ばれたのか、このような場面にはペトロや他の使徒たちが登場するのがふさわしいではないかと思うのですが、復活の主は私たちの思いを超えて、自由にご自身の愛を現わされる方なのです。また、復活の主イエスに最初に出会った女性は、ヨハネ福音書によれば、マグダラのマリアという女性であって、主イエスの母マリアではありませんでした。そして、マグダラのマリアは困難な状況の中から主イエスに救われた全く無名の女性でした。主イエスはご自身の最初の復活顕現をそのような女性に示されたのです。ここにも復活の主が私たち人間の予想をはるかに超えた自由な愛の御方であることが示されています。これらの自由な主の復活顕現を通して、最後には、最初に使徒として選ばれた弟子たちにバトンが渡され、使徒たちを通して主の教会が建てられていくのですが、復活の主が自由な愛の御方であることは今も変わらない事実なのです。マタイ福音書3章9節に「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」とありますが、主イエスはそのような自由な愛をもって復活のご自身を私たちに現わされるのです。

 さて、今日のルカ福音書24章13節以下に、復活の主が二人の無名の弟子にエマオという村に向かう途上においてご自身を現わされたことが大変印象深い仕方で記されています。「エマオ」という村はエルサレムから60スタディオン、約11km離れたところにあった村です。何の用事であったかはわかりません。もしかしたら二人の弟子は主イエスの十字架の死によって深い失意の中にあり、主の弟子であることに望みを失って自分たちの郷里に帰るところであったのかもしれません。その二人の弟子に復活の主はご自身を現わされたのです。ご自分を現わされたというよりは、むしろご自身を隠しつつ、二人に近づき、歩みを共にされたのです。二人の弟子が復活の主イエスに気づかなったのは、二人の念頭に主イエスの復活のことが全くなかったことによるという面もあったかもしれませんが、復活の主が深くご自身を隠されたので、二人の心の目が(まさに復活の主の全能の御力によって)「開かれ」(31節)ない限り、決して理解することができないような仕方で、ご自身を隠しつつ、二人に近づき歩みを共にされたから、というのが本当のことでしょう。

 二人の弟子が先ごろエルサレムで起こった悲しい出来事、主イエスの十字架の死について話し合いながら歩いているその歩みの中に、復活の主は共に歩みつつお入りになったのです。17節以下、復活の主が「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねられると、「二人は暗い顔(陰鬱な顔)をして立ち止まり」、二人のうちのクレオパという人が「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と、その人の無知にあきれたように言ったのです。主イエスの十字架の出来事はエルサレム中で知らない人がいないほどの重大事件だったのです。19節以下にこう記されています。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。~」と語られています。二人の弟子は、主イエスが十字架につけられて殺されたこと、しかし婦人たちがイエスの墓に行くと、イエスの遺体はなく、天使が現れ「イエスは生きておられる」と告げたということ、それらのことについて話し合っていたのです。もちろん、二人の弟子は主イエスの復活のことは信じられなかったのです。ただ、天使が現れて「イエスは生きておられる」と婦人たちに告げたことについて不思議なことだと言いつつ、話し合い、論じ合っていたのです。

 主イエスについて語る二人の弟子の言葉に心がひかれます。あの方は「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」というのです。そして「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と言っています。これらの言葉によって、当時の人々の中で主イエスがどのような人として受け止められていたかがよく分かります。まことに主イエスは「神と民全体の前で行いにも言葉にも力ある」方だったのです。そしてイスラエルの良識ある人々は、この人こそイスラエルを解放してくださる方、言い換えれば、イスラエルを神の民として正しく導いてくださる指導者として望みをかけていたのです。主イエスが人々にいかに深く信頼されていたかが分かります。そうであれば、当時のイスラエルの指導者たちがいかに強引に自分たちの都合で、自分たちの権威や権力を守るために主イエスを十字架につけたか、従って、主イエスの十字架刑がいかに不当なものであったかを、これらの言葉によって改めて知ることができると思います。

 今日の個所で注目すべきことは、復活の主イエスが隠れた姿で二人の弟子に現れ、歩みを共にし、弟子たちの話をつぶさに聞いてくださるお方であるということです。復活の主はご自身の復活が直ちにわかるような仕方でご自身を現わされないのです。どうだ、わたしは復活したのだと言わんばかりにご自身を現わし、弟子たちを驚かし、おびえさせ、ひれ伏させるという仕方ではなく、全くご自身を隠して、さりげなく弟子たちと歩みを共にし、弟子たちの話、悩み、嘆き、心の痛みを静かに聞いてくださる、そういう仕方でご自身を現わされるのです。そうであれば、復活の主イエスは、今も、そのような仕方で私たち一人一人の生活、人生の歩みの中に伴い、私たちの日々の生活の労苦や戦いを共にしてくださり、その中で、私たちの知らない間に、死人をよみがえらせる全能の御力をもって私たちの魂を励まし、主キリストを信じる信仰を保ちつつ歩むことができるように導いていてくださるのです。

 復活の主イエスは、私たちの日々の生活のそして人生の「同行者」なのです。私たちの日々の歩みの主人公はもちろん私たち自身です。私たち自身の責任で、私たちは日々の生活を営み、人生の歩みを進めているのです。その歩みに、復活の主が伴ってくださるのです。そして、私たちの日々の悩みや苦しみ、罪との戦いのすべてを共にしてくださり、その中で、私たちが虚無や絶望、不信仰の混迷の中に埋没することがないよう、常に私たちの魂を守り、新たな信仰の望みへと導いてくださるのです。復活の主イエスがそのような方として常に私たち一人一人に伴っていてくださるお方であることに気づきたいと思うのです。そしてこのお方に頼ることによって、私たちの日々をたとえ平凡であっても主が共にいてくださるかけがえのない日々として生きていきたいと思うのです。

 同行者イエスは、主イエスの十字架の死を悲しむ二人の弟子の話を聞きながら、神から遣わされたメシアは苦しみを受けるために来られると預言者たちが言っているではないか、と言って、「メシアの栄光」のことばかりに心を奪われ、「メシアの苦しみ」について深く考えようとしない弟子たちの「物わかりの悪さ」と「心の鈍さ」を戒められたのです。そして、神から遣わされる本当のメシアは苦しみを受けるためにこそ来られ、「苦しみを受けて、栄光に入る」(26節)方であるとして「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたって」(27節)、メシアについて書かれていることを説明されたのです。

 メシアが苦しみを受けるとは、人間の罪が行われることをお許しになるということです。しかもご自身に対して罪(悪)が行われることをお許しになるのです。それなら、ご自身が人間の罪を受けて、そのために苦しみ、死ぬということです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章13節)を実践されるのです。ご自身において死ぬまで罪の苦しみを味わい抜かれるのです。その上で、あなたの罪を贖ったから、あなたの罪はすべて赦されている。だから、安心してわたしに頼り、わたしの復活の命によって生きる者となりなさい、と復活の主は私たちを招かれるのです。私たちは自分の力で生きる限り、罪を犯さざるを得ません。どんなに誠実に生きようとしても、自分の力で生きる限り、「罪の奴隷」(ローマ6章6節)として生きざるを得ないのです。「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7章19節)のです。主イエスは、罪が犯されるままに罪を身に受け、十字架の死を全うされることを通して、人間の罪の本質を明らかにされたのです。人間の罪がいかに空しいものか、いかに残酷なものか、いかに無意味で果てしなく死を生みだすに過ぎないものであるか、肉の思いによって心の目が曇らされることによって、本当のことを見ることができず、空しく人生を生きざるを得ないかを、教えられたのです。

 復活の主が私たちの日々に伴ってくださるとは、私たちが犯す罪の中にも伴ってくださるということです。その暗い喜び、悲しみ、苦悶の中にも伴ってくださるのです。十字架の死を受けられたように、罪を犯すことを許していてくださるのです。その上で、罪を犯すことの空しさ、望みのなさ、罪の虜の惨めさに気づかせ、復活の主に頼る信仰へと心の目を開いてくださるのです。復活の主は、ご自身を隠しつつ私たちの生活のすべてに伴ってくださる中で、私たちの魂の最も深いところ、罪のどん底で打ちひしがれ苦悶している私たちの魂に働きかけてこられるのです。そして、罪の闇が私たちの魂を飲み込もうとする危機の時に、おぼれるペトロを強い御手をもって救われたように、全能の御力をもって私たちの魂を守り、信仰の望みへと導いてくださるのです。復活の主は、そのようにして私たちの日々の生活の中で、ご自身を隠しつつ、しかし、恵み深い救い主として共にいてくださり、私たちの魂を守り導いてくださるのです。

 苦難のメシアの話を聞く間に、不思議な感動が二人の弟子の心を捕らえたのです。32節に「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」とあります。二人の弟子は苦難のメシアについての聖書の説き明かしを聞く間に、主イエスの十字架の死の意義に気づかされ、沈んでいた心にともし火がともるように「心が燃える」経験をしたのです。「心が燃える」ことは、弟子たちが主と共に歩む時、いつも経験していたことでした。その同じ経験を、二人は新たにすることができたのです。苦難のメシアの話が「御言葉の説き明かし」(説教)として二人の魂を励ましたのです。それこそ復活の主の御力によることでした。二人の弟子は共に歩む人が復活の主であることに気づかなかったのですが、御言葉に励まされ、十字架の主イエスを慕う心へと導かれたのです。主イエスの十字架の死の重大性に気づき始めたのです。主イエスの十字架の死が決して無残な敗北の死ではなく、苦しみを受けるメシアの死であり、人間の罪を贖う勝利の死であることに気づき始めたのです。それによって新たな信仰の望みに心が燃える経験をしたのです。

 一行が目指す村に近づいた時、二人の弟子は別れがたい思いを抱き、自分たちのところに留まるように同行者に願ったのですが、その方は「なおも先へ行こうとされる様子だった」(28節)のです。なぜ復活の主は二人の弟子のところに留まりご自身の復活の事実を訴えようとされなかったのでしょうか。二人の心が「燃えている」ことで十分だったからではないでしょうか。そのことで目的を達することができたからです。心が燃えれば、後は自ずから復活の主を信じる信仰に導かれるはずだからです。主イエスは私たちを完全にご自身の支配下に置くことは望まれません。それは終わりの時、救いの完成の時まで取っておかれるのです。復活の主の目的は、この世にあって私たち一人一人の魂に寄り添い、私たちの魂をこの世のあらゆる誘惑から守り、どのような状況の中でも十字架と復活の主に望みをおいて生きるように導かれることだからです。復活の主は二人の心に主イエスに対する「燃える心」を新たにともすことができたのです。それ故に、復活の主は二人と別れて「なおも先へ行こうとされた」のではないでしょうか。

 二人に強いて引き留められ、食事を共にし、その方が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」弟子たちに渡された時、「二人の目が開け」(31節)、それが主イエスであることに二人は気づかされたのです。パンを取って、賛美がささげられ、パンが裂かれた時、二人は主イエスと共にした「最後の晩餐」を思い出したのではないでしょうか。いや、主の弟子として主と共に過ごしたすべての日々を思い出したのではないでしょうか。その食卓(聖餐)の中に、復活の主の臨在の力が(聖霊と共に)働くことによって、二人の心の目が開かれ、その方が復活の主イエスであることに気づかされたのです。その時こそ、復活の主を喜ぶ信仰の喜びが、二人の弟子の心に満ち溢れたのです。

 二人が復活の主イエスに気づいたとたんに、復活の主の姿が見えなくなりました。しかし、姿が見えなくなったからと言って、復活の主がいなくなったわけではありません。復活の主は隠れて、しかし、復活の全能の御手をもって働かれるお方なのです。このお方を信じてこのお方と共に歩む信仰の歩みが、二人の弟子に託されたのです。復活の主を信じるとは、復活の主の働きに与って信仰の心を燃やされつつ生きることです。そうであれば、復活の主の姿は見えなくてよいのです。復活の主が生きて働き、私たちの日々の歩みを共にしてくださることを信じることで、十分なのです。「見ないで信じる者は幸いである」(ヨハネ福音書20章29節)と復活の主は言われました。主イエスの復活が信じられないと言って苦しむトマスに、復活の主はご自身の体を見せ、手で触らせ、その実在を確かめることを許されましたが、復活の主の御心は「見ないで信じる」ことです。主イエスの十字架の真実を通して主イエスの復活の事実を信じ、今も復活の主が私たちの日々の生活の中に生きて働いてくださることを信じつつ生きることを、復活の主は望んでおられるのです。

 二人の弟子は「時を移さず出発して、エルサレムに戻り」(33節)ました。二人にとって復活の主イエスに出会ったことが決定的なことでした。主イエスが十字架の死を遂げ、神の全能の命の中に生きておられ、自分たちのような者をもお見捨てにならず、寄り添って共に歩んでくださるお方であることを知ったことが決定的なことでした。二人はもはやエマオに留まってはいられなかったのです。二人が時を移さずエルサレムに戻ってみると、11人の弟子とその仲間たちもすでに主イエスの復活を知っていました(34節)。その仲間たちにエマオの途上での二人の弟子の経験が加えられることによって、弟子たちはいよいよ燃えるような復活の主を信じる信仰へと導かれたのです。

 復活の主イエスは、常に私たち一人一人の日々の歩みに伴い、私たちのすべての罪を赦し、復活の命をもって私たちの魂を励まし、燃える心を与え、罪と戦う力を与えてくださいます。この復活の主を信じ生きていきたいと願います。

 武山教会牧師 柏木英雄