先週の説教より
「地の果てに至るまで主の証人となる」 使徒言行録1章3-11節
しばらく主イエスのご復活について覚えつつ礼拝を献げてきましたが、今日は、主イエスのご復活についてのまとめをしつつ、その後に続く、主イエスの昇天とペンテコステ(聖霊降臨)への備えについて、使徒言行録1章3節以下から学びつつ、礼拝を献げたいと存じます。
まず今日の個所で注目すべきところは、3節です。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。ここに「四十日にわたって」とあります。主イエスの復活顕現は2回や3回のことではなく、40日間にわたって、繰り返し行われたのです。主イエスの復活顕現は、主イエスの自由な愛の主権性の中でいろいろな弟子たちに対して行われましたが、最後は、最初に「使徒」として選ばれた弟子たちに対して集中的に行われ、それによって弟子たちは「使徒」(遣わされた者)として十分に整えられ、将来の福音宣教と主の教会の形成のために備えられたのです。
「40」という数字は、主イエスがメシアとしての公生涯を始める前にサタンの誘惑を受けた時の40日間の断食(マタイ4章2節)のことを思い起こさせます。またモーセがシナイ山で神ヤハウェと祈りの交わりを持った40日間(出エジプト24章18節)、あるいはノアの洪水の時に雨が降り続いた40日40夜(創世記7章7節)を思い起させます。つまり「40」という数字は「完全数」で、「十分に」あるいは「徹底的に」という意味があります。従って、主イエスは弟子たちが主イエスの復活を心から信じることができるように、「40日」という期間を用いて、「十分に」「徹底的に」復活のご自身を弟子たちにお示しになったのです。ひとたび「使徒」として選ばれた者たちをお守りくださる主イエスの真実を思わせられると共に、主イエスの復活を信じることが当時の弟子たちにとってもいかに困難であったかを思わせられます。この世の現実を生きる時、主イエスの復活を疑う誘惑が起こってくるのです。主イエスの復活が事実ではない、架空のことのように思わされる誘惑が働くのです。その中で弟子たちが、罪と死に勝利された主イエスの復活を心から信じ、主の復活の命に(聖霊によって)与りつつ力強く福音宣教に生きることができるように、主イエスは40日間にわたって繰り返し弟子たちに復活のご自身を現わされたのです。そしてこの復活の主イエスとの40日間の交わりの中で弟子たちは「使徒」として十分に整えられていったのです。
主イエスの復活の事実が弟子たちの心の中に深く刻まれることによって、弟子たちは主イエスの十字架の死が本当に人間の罪の贖いの死であることを心の底から信じることができるようになりました。そしてそれはとりもなおさず、自分たちのすべての罪が主イエスの十字架によって贖われ赦されていることを知ることでもありました。そのことは弟子たちの心に大いなる「解放」を与えました。主イエスは自分たちのすべての罪、愚かさ、弱さを赦していてくださる、そして、自分たちをなお主の弟子として用いてくださる。そういう確信を弟子たちは与えられたのです。これは本当にうれしいことだったのではないでしょうか。主イエスの十字架に躓き、全く主の弟子にふさわしくなくなってしまったと思っていた弟子たちにとって、深く心慰められることだったのではないでしょうか。弟子たちは、初めからこの方こそと信じて、すべてを捨てて主イエスの弟子になったのです。そのことも主ご自身の選びによることでしたが、その時の自分たちの決断は誤っていなかった、主の弟子となる自分たちの決断は正しかった、そういう思いを実感した時でもあったのではないでしょうか。いずれにしても、主の弟子として召されたその召しを、今こうして復活の主イエスとの40日間の交わりの中で確認することができることは、弟子たちにとってこの上ない喜びであり、改めて主の弟子として選ばれた幸いを深く味わった弟子たちだったのではないでしょうか。復活の主イエスとの40日間の交わりは弟子たちにとって至福の時であり、まさに「天国」に入れられた思いがしたのではないでしょうか。
復活の主イエスとの40日間の交わりの中で、弟子たちは「心の目が開かれ」、主イエスについて改めて深く知ることができるようになりました。主イエスの十字架と復活を経験する前は、弟子たちは主イエスの御言葉を正しく理解することができませんでした。主イエスの御言葉は弟子たちにとっていつも「謎」のように聞こえました。それは、主イエスが常にご自身の十字架と復活を前提にして語られておられたからです。そのことを知った弟子たちは、今こそ本当に主イエスの御言葉を正しく理解することができるようになったのです。例えば、主イエスの「山上の説教」(マタイ5章以下)は大変すばらしいものですが、実際にそれを行うことは不可能なことのように思われました。心が貧しい人々は幸いであると言われても、今一つピンときませんでした。しかし、主イエスを拒み十字架につける自分自身の計り知れない罪を知り、その罪を主イエスご自身が十字架において担ってくださったことを知る時、どのような罪人であっても、自らの罪を認め、心から謙遜に主の赦しと助けに頼る者、その意味で、心の貧しい者が幸いであることを、弟子たちは自分自身のこととしてよく理解することができたのです。「あなたの敵を愛しなさい」という主の御言葉も、それを十字架において真に実践されたのが主イエスご自身であり、敵である者をも赦して救いの道を開いてくださる主イエスの深い愛を知ればこそ、自分たちもまた敵を愛するものとならなければならないし、主のご臨在の助けの中でそのことが可能であることを弟子たちは知ることができたのです。
主イエスの十字架と復活の出来事の光の中で、主イエスを正しく理解することができた時、弟子たちは、それぞれの賜物を生かして4つの福音書に主イエスのご生涯をまとめました。その時、弟子たちが共通に抱いた思いは、自分たちがいかに主イエスに対して無理解であったかということでした。主イエスが神から遣わされた神と共に歩む(インマヌエル)尊いお方であり、この方こそ本当に信頼できるお方であると信じて主の弟子になったことは誤りではなかったし、そこに主の選びがあったのですが、弟子たちはどうしても主イエスの十字架と復活を信じることができませんでした。主イエスの十字架はメシアとしての挫折であり失敗としか思えなかったのです。どんなにそれが罪の贖いの死であると聞かされても。そのために、主イエスの存在は主イエスに最も近くいた弟子たちにとってもいつも謎に満ちたものだったのです。弟子たちはそういう自分たちの主イエスに対する無理解、不信仰、弱さ、愚かさを隠すことなく福音書に記したのです。それが偽らざる自分たちの姿だったからです。しかし、そういう自分たちが主の弟子として用いられたのです。そのことを弟子たちは伝えたいと思ったのです。そして、主イエスの十字架と復活を理解することがなければ、主イエスを正しく知ることができないことの例証として自分たちの姿を書き記したのです。それによって主イエスの十字架と復活の出来事がどんなに大切な出来事であるかを証ししたいと願ったのです。
3節に「神の国」について話されたとあります。復活の主イエスが40日間の弟子たちとの交わりの中で最も大切なこととして話されたのが「神の国」についてでした。「神の国」の「国」(バシレイア)とは、統治、支配という意味ですから、神の国とは、神の支配、神の統治ということです。それは、言い換えれば、復活の主イエスの支配、統治ということです。主イエスがご自身の十字架と復活の出来事を通してすべての人を支配(統治)されるのです。つまり、主イエスはご自身の十字架と復活の出来事を掲げて、すべての人がそれを信じるように導かれるのです。あなたのすべての罪は主イエスの十字架によって赦されている。あなたはどんな罪の中にあっても、主イエスの復活の命(罪と死に勝利する神の永遠の命)の中に生きることができる。だから、主イエスの十字架と復活を信じて生きるように、と復活の主イエスはすべての人に呼びかけておられるのです。主イエスの十字架と復活を信じない人々に対しても、まさに十字架と復活の赦しと愛をもって、一人一人の魂に働きかけておられるのです。これが、主イエスにおける神の国(神の支配・統治)の働きです。
人は本当の愛を求めています。どんなに弱く、愚かであっても決して見捨てられない真実の愛を求めています。それが主イエスのもとにあるのです。主イエスの十字架と復活の出来事の中にそれが示されています。ここにだけ本当の愛と赦しがあり、人が安心して生きていける最も健全な救いがあります。そのことをすべての人に証しし宣べ伝えるように、復活の主は弟子たちに(そして信じる私たちに)求めておられるのです。
復活の主イエスとの40日間の交わりは、弟子たちにとって、文字通り「神の国」の恵みの中に生かされる本当に幸せな時でした。弟子たちはこの復活の主イエスとの交わりがいつまでも続いてほしいと願ったのではないでしょうか。ペトロはかつて主イエスの「山上の変貌」の時に、ここに小屋を三つ建てましょうと言ったことがありました。主イエスが旧約を代表するモーセとエリヤと対話する姿を見て、いつまでもそれを眺めていたいと思ったからです(マルコ9章2節以下)。その時と同じ思いを味わった弟子たちだったのではないでしょうか。
そして弟子たちは、この復活の主イエスとの40日間の交わりの延長線上に「神の国」の完成があると考えたのではないでしょうか。6節に「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いは、そういう弟子たちの期待を表した言葉ではないでしょうか。弟子たちは復活の主イエスとの交わりの延長線上で神の国の完成が実現することを期待したのです。しかし、そうではありませんでした。弟子たちは、今こそ主の弟子(使徒)として働くことが期待されていたのです。神の国の完成の時期は「父が御自分の権威をもって」(7節)定められておられることだから、そのことは父なる神に委ねて、今や弟子たち自身が、新しい信仰生活、聖霊の恵みの中で「主の証人」(8節)として生きる信仰生活(福音宣教)を始めていくことが求められていたのです。いつまでも続くことを願った復活の主イエスとの交わりは今や終わりを告げ、主の弟子として聖霊によって生きる新しい信仰生活(福音宣教)が課題として弟子たちに与えられたのです。
そのことは同時に、主イエスが父なる神の御許に帰って行かれる「昇天」の出来事(9節以下)を意味していました。復活の主イエスは、そのまま地上に存在し続けるわけではなかったのです。復活の主イエスは、今やメシアとしての地上のすべての業を終えて、天の父なる神の御許に帰って行かれるのです。そしてその主イエスに代わって、聖霊が送られ、その聖霊の恵みの中で、目には見えませんが主イエスが臨在され、その主イエスによって神の国の働きが行われる、そのような聖霊によって生きる信仰生活が今や弟子たちに(信じるすべての者たちに)新しい課題として与えられたのです。
昇天とは、主イエスが地上のメシアとしての業を終えて、天の父なる神の御許に帰っていかれることですが、それは、主イエスがメシアとしての働きをやめることではなく、父なる神の右に座して、いよいよ本格的に神の御子メシアとしての救いの働きを始めることを意味しました。主イエスは父なる神の右に座して何をされるのでしょうか。すべての人間一人一人のために、ご自身の十字架を掲げて、父なる神に執り成しをされるのです。わたしはこの者のために十字架の死を遂げ、すべての罪を贖いました。それ故に、わたしの十字架の死によってこの者の罪を赦し、わたしの復活の命に生きることができるようにしてください、と、主イエスは私たち一人一人のために執り成してくださるのです。そして、父なる神の赦しに基づいて、主イエスご自身が、聖霊の働きの中でご臨在くださり、私たちを主イエスの復活の命の中に、従って、神の国の恵みの中に生きることができるように導いてくださるのです。こうして聖霊による主イエスの神の国(神の救い)の働きが始まるのです。
主イエスが父なる神の御許に帰られるということは、主イエスの姿が地上から見えなくなることです。それは弟子たちにとってさびしいことでしたが、聖霊が臨んでくださることによって、その中に目には見えなくても主イエスが共にいてくださるのです。主イエスはかつて「あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」(ヨハネ14章18節)と言われましたが、そのことが今や実現されるのです。主イエスの姿が地上から見えなくなることは決して主イエスの救いの働きが弱められることではありません。むしろ、聖霊の働きの中で、主イエスの神の国の働きは強められるのです。なぜなら、主イエスは聖霊の働きの中でいつでも、どこでも自由にご自身を現わすことができるからです。主イエスが目に見える形で地上におられるなら、主イエスの働きはそれによって限定されてしまいます。目に見える範囲にしか主イエスはおられないことになりますから。しかし、聖霊の働きの中でご臨在くださることによって、主イエスはいよいよ自由に、より多くの人に、いや、すべての人に救いの働きをすることができるのです。
今や、弟子たちに(そして私たちに)新しい信仰の生活が求められているのです。聖霊を祈り求め、聖霊の恵みの中で主イエスと共に生きる信仰生活が求められているのです。主の祈りは聖霊を求める祈りです(ルカ11章13節)。そうであれば、主の祈りを祈りつつ聖霊によって主と共に生きる、そういう新しい信仰生活が求められているのです。
聖霊によって生きる生活は、そこに主がご臨在くださり、そこに神の国(主のご支配)があるのですから、それ自身が救いの生活です。聖霊に与る時、すでに私たちは神の国の中にあり、神の救いの中に生かされているのです。この世の罪が荒れ狂い、困難な状況の中に置かれても、主イエスを信じて聖霊の恵みに生かされる時、私たちはすでに神の救いの中にいるのです。そうであれば、その救いの生活を失わないことです。その生活を最も大切なこととして守るのです。この世がどのような状況にあっても、聖霊によって主と共に生きる生活こそ、最も尊い、最も大切な生活なのです。
8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、~地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とあります。「地の果て」とあります。「地の果て」とは、この地上のすべての国々、すべての人々のことであると同時に、私たちの生活の隅々に至るまでということです。「地の果て」は私たちの日常生活のただ中にあるのです。そうであれば、日常生活のただ中で聖霊を求め、主と共にある信仰の生活を実現していくのです。それが「地の果てに至るまで主の証人として生きる」ことです。私たちは日々の生活の中で自分の思い中心の生活を送りがちです。その中で、主と共に生きる生活を求めるのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とあります。自分の努力で主イエスのご臨在を獲得することはできません。聖霊の助けを祈るのです。聖霊の恵みの中で主がご臨在くださることを求めるのです。その祈りに主が答えてくださるのです。その時、私たちは「力を受けて」「主の証人として」生きることができるのです。弟子たちは主イエスがどんなに深く自分たちを憐れみ、すべての罪を赦して、主の復活の命に生かしてくださるかを知りました。その恵みを証しするのです。そのために「地の果てに至るまで主の証人として」生きるのです。そのことが弟子たちにそしてすべての信仰者に託された使命なのです。
牧師 柏木英雄