先週の説教より
「祈りによらなければ」 マルコによる福音書9章14-29節 (9/6説教)
主イエスは3人の弟子たちだけを連れて高い山に登り、山上の変貌の奇跡を見せ、受難に向かうイエスこそ神の御心にかなう栄光のメシアであることを教えられました。しかし、後に残った弟子たちは主イエスの受難予告の衝撃から立ち上がることができず、なお深い心の動揺の中にあり、そのためにてんかんの子供を癒すことができませんでした(18節)。受難予告のために、主イエスに対する心からの信頼に堅く立つことができなかったからです。
弟子たちが主の弟子として力ある働きをすることができるために必要な唯一つのことは、主イエスに対する心からの信頼でした。てんかんの子供を持つ父親が叫んだあの「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)という叫びこそ、弟子たちに必要なことだったのです。「おできになるなら~憐れんでお助けください」(22節)といった中途半端な主イエスへの信頼ではだめなのです。自分の不信仰、否、自分には「信仰がない」ことを率直に言い表し、心から主の助けにすがるのです。その時、弟子たちは主イエスにおける神の全能の恵みに与ることができるのです。それが「信じる者には何でもできる」(23節)と言われた主イエスの御言葉の意味なのです。
弟子たちが後でひそかに自分たちの無力について尋ねた時、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」(29節)と主イエスは言われました。「この種のもの」とは、私たちの存在に深く根差す罪の働きのことです。罪の働きは、罪に対する自らの無力を言い表し、真剣に主に頼る心からの「祈りによらなければ」決して取り除くことができないのです。
武山教会牧師 柏木英雄