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先週の説教より

「一杯の水を飲ませてくれる者は」 マルコによる福音書9章38-41節(9/27説教)

 「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(41節)と主イエスは言われました。「キリストの弟子だという理由で」「一杯の水を飲ませてくれる者」とは、自分はキリストの弟子(信仰者)にはならないけれど、主の弟子として生きることの大変さ、苦労の多いこと、しかし、その生き方の尊いことを知っている人なのではないでしょうか。それ故に、「ご苦労さま」と言って「一杯の水」を飲ませてくれるのです。信仰者に対するささやかな好意なのです。でも、その好意がありがたいのです。のどの渇きを覚える時の一杯の水のありがたさのように。信仰者はそれによって励まされ、信仰に生きる勇気と力を新たにすることができるのです。

 主の弟子として生きるとは、自分を捨てて主に従うことです。自分の命ではなく、主の命に生きるのです。そのために日々新しく主を求めるのです。自分の命に生きることの空しさを知っているからです。空しいことを知りながら、常に自分の思いと力に生きよとする愚かさを知っているのです。それ故に、常に主を求めるのです。そのことが最も正しく、安全であり、そこに本当の心の平安があり、新しく生きる力があることを知っているからです。

 キリストを信じない人は、そのような信仰の労苦が自分には困難であると感じるのです。しかし、そのような生き方が正しく、尊いことであることを知っているのです。主イエスは、そのような人の「水一杯の好意」を決して無にされないのです。そのような人は必ず祝福の報いを受ける、と言ってくださるのです。

牧師 柏木英雄