先週の説教より
「火で塩味を付けられる」 マルコによる福音書9章42-50節(10/4説教)
42節に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とあります。激しい主イエスの御言葉です。これによって、主イエスを信じる信仰者(主の弟子)の一人をも躓かせ、その信仰を妨げることがいかに重大な罪であり、重い裁きに値するかを主イエスは語っておられるのです。
43節では「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。~」と言っておられます。これは、自分自身が自分の信仰に対して罪を犯し、自分の信仰を妨げるなら、そのことも重い裁きに値すると言っておられるのです。45節以下でも同じように厳しい言葉が重ねられています。
これらの主イエスの厳しい御言葉は一つの事実を前提として語られているのです。主イエスの十字架と復活の事実です。つまり、主イエスはこれらの重い罪の裁きをご自身が代わって十字架において担い、罪を犯した者を主の復活の命に生かすという神の救いの恵みを前提にして、これらの厳しい言葉を語っておられるのです。そうであれば私たちは、これらの罪を犯す度に、主イエスの十字架と復活の恵みに立ち帰るように導かれているのです。
49節の「火で塩味を付けられる」とは、主イエスの十字架と復活の恵みに繰り返し立ち帰り、徹底的に裁かれ、罪赦され、清められることを言っているのです。そうであってこそ、信仰者は「塩味」を自分自身の内に持つことができるのです。信仰者が「塩味」を失うなら、信仰者としての力を失い、何の役にも立たなくなってしまう、と主イエスは言われるのです。
牧師 柏木英雄