文字サイズ
  • 文字サイズを中にする
  • 文字サイズを大にする
MENU CLOSE
キービジュアル

先週の説教より

「いつまでも主と共に」(聖徒の日礼拝) Ⅰテサロニケ4章13-18節(11/1説教)

 13節に「既に眠りについた人たちについては~」とあります。信仰者の死が「眠り」であると言われています。それは、実際に信仰者の死が信じる主イエスの御手の中に「眠っている」ように見えることにもよりますが、事実、信仰者は死によって主キリストの全きご支配の中で「眠り」につくのです。そして、終わりの日、主キリストの救いの完成の時に、神、主キリストとの永遠の交わりの中に「目覚め」させられ、「いつまでも主と共にいる」(17節)ものとされるのです。それ故に、信仰者の死が「眠り」と言い表されているのです。

 そして、その「眠り」から「覚める」時に、厳密な秩序(順序)があると言うのです。先に眠りについた人から「順に」目覚めるのであって、後に眠りについた者が先に目覚めるようなことは決してない、と言っています。「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」(15節)、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから~」(16~17節)。だから、「既に眠りについた人たちについては、~嘆き悲しまないように」(13節)と語っているのです。

 「眠りにつく」ことと「目覚める」ことにおけるこのような「厳密さ」は何を意味しているのでしょうか。それは、神が私たち一人一人(全ての人間!)の生と死を深い愛の眼差しをもって見つめ、主の執り成しの中で御心の内に深く覚えていてくださるからです。一人一人がどのように生き、どのように地上の命を終えたかを神が深く心に留めていてくださるからです。従って、神は私たち一人一人の「眠り」と「目覚め」についても明確に把握していてくださり、その点で一切の混同や混乱がないのです。それ故に、「眠りにつく」ことも「目覚める」ことも厳粛な秩序(順序)の中に置かれているのです。

牧師 柏木英雄