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先週の説教より

「先頭に立つ主イエス」 マルコによる福音書10章32-34節(11/22説教)

 「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」(32節)とあります。主イエスが「先頭に立って」エルサレムへの旅を進められたということは、主イエスが自分から進んでエルサレムでの受難をお受けになったことを意味しています。現実には、主イエスはイスラエルの指導者たちによって「これはまことのメシアではない、自称メシアで神を冒涜する人間である」と断罪されて十字架につけられたのですが、その十字架の死を愛と赦しと執り成しの祈りをもって従順に忍び抜くことが神の御前にすべての人間の罪の贖いの死を実現することになると信じて、主イエスは自分から進んで十字架の死をお受けになられたのです。

 その主イエスの十字架の死の真実を天の父なる神が喜ばれ祝福された故に、主イエスの十字架の死がすべての人間の罪の贖いの死としての意味と力を持つことができたのであり、誰もが決してその道を開くことができなかった罪と死に勝利する復活(34節)の救いの道が開かれたのです。

 主イエスが十字架への道を急がれたのは、律法にはもはや人を救う力がないことが明らかになったからでした。あの富める青年は子供の時から誠実に十戒を守ってきたのに、永遠の命を得ることができませでした(20節)。他方、律法学者やファリサイ派の人々は自分たちの律法の義を誇るばかりで、まことの悔い改めに至ることはありませんでした。そういう神の民イスラエルの現実の中で、主イエスは、ご自身の十字架の死と復活による神の救いの恵みだけが人を真の悔い改めに導き、神の救いに与らせることができることを信じて、「先頭に立って」十字架への道を進んで行かれたのです。

牧師 柏木英雄