先週の説教より
「恵みと真理とに満ちていた」(新年礼拝) ヨハネによる福音書1章14-18節(1/3説教)
私たちはすぐる日主イエスの御誕生を祝いました。主イエスはユダヤのベツレヘムでお生まれになりましたが、その後、ヘロデの迫害を逃れ、父ヨセフの庇護のもとエジプトに逃れ、そこから帰還した後はガリラヤのナザレに引きこもり、30歳でメシアとしての公生涯を始めるまで(ルカ3章23節)、そこで生活されました(マタイ2章23節)。
ガリラヤのナザレにおける主イエスの日々は平穏で幸いなものだったのではないでしょうか。幼き日は父ヨセフと母マリアの深い愛の中に育まれたと推測できます。マリアとヨセフは幼子が神から与えられた子供であることを知っていたので、幼子イエスを深く愛し大切に育てたと考えられますから。父ヨセフが亡くなった後、主イエスは父の大工の仕事を受け継ぎ一家の大黒柱として家族を養いました。その生活は経済的には豊かではなかったかもしれませんが、精神的には平和で充実したものだったのではないでしょうか。
主イエスは、ナザレでの平穏な日々の中で深く神に祈り、自らを神に献げる決意を深めていかれたのではないでしょうか。エルサレム神殿で罪の贖いとして献げられる小羊に自分を重ね合わせ、人間の罪を贖う小羊として自分を献げることがメシアとしての自らの使命と自覚するようになったのではないでしょうか。30年間のナザレでの平穏な日々の中で、主イエスは神への祈りと思索を深め、メシアとして立つ心の備えをされたと思うのです。
もとより、主イエスは「言が肉となった」方であり、「父の独り子としての栄光」を持ち、「恵みと真理とに満ちた」方であって(ヨハネ1章14節)、「インマヌエル」(マタイ1章23節)そのもののお方でしたが、そうであればこそ、主イエスは一人の人間として、30年間のナザレでの平穏な日々の中で深く神に祈り、メシアとして生きる心の備えを固めていかれたのではないでしょうか。
牧師 柏木英雄