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先週の説教より

「すべての人の僕になりなさい」 マルコによる福音書10章35-45節(1/24説教)

 主イエスが3度目の受難予告をされ(32~34節)、主イエスの受難が避けられない事実であることが明らかにされた時、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスのもとに進み出て、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と願い出たのです。二人は、主イエスの受難が避けられない事実であることを知った時、自分たちの将来に不安を抱き、主イエスによる保証を求めたのです。

 その二人に対して主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(38節)と言われました。そもそも弟子たちは主イエスの「受難」の意味が分かっていなかったのです。弟子たちは、主イエスが苦しみを受けるのは主イエスに敵対する者たちのせいであるとばかり考え、自分たちの罪の贖いのためでもあることを少しも理解していなかったのです。そのために弟子たちは、主イエスが敵と戦わず、自ら敵に服する仕方で十字架につけられることが理解できなかったのです。しかし、主イエスの十字架に躓き、主を見捨て、全く主の弟子にふさわしくなくなってしまった弟子たちをお見捨てにならず、今こそ主の弟子として用いようとされる計り知れない復活の主の憐みの愛を知った時、初めて弟子たちは主イエスの受難が自分たちの罪の赦しと救いのためでもあったことを心から知ることができたのです。

 その弟子たちに対して、主イエスは「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(44節)と言われたのです。人に「仕えられる」のではなく、人に「仕える」ところに、主イエスがおられるのです。人に「仕える」ことによって、私たちは主のご臨在の恵みに与ることができるのです。それ故に私たちは喜んで人に仕えることができるのです。主イエスの「僕」として生きることによって、初めてすべての人の「僕」として生きる力を与えられるのです。

牧師 柏木英雄